2007-11-04

『日本共産党』筆坂秀世(著)

以前この本が出たばかりの時、アマゾンにレビューを書いた。あまりに長かったので掲載してもらえず、かなり 省略したものが今載っている。以下は、その長かった原文をひつこい までにさらに加筆して(笑)、書いたものである。アマゾンのどのレビューが それなのかといったことは、読めばなんとなくわかるはずだ。

---------------------------------------------------------------

私は、30歳代中ごろ、ずっといろんなことを考えてきて、マルクス主義というものに重大な欠陥があることに気付いた。理論の問題点というのは、その理論そのものにあるとは限らない。その理論が何を書かなかったのかということにこそ、その思想の問題が浮かび上がることもある。マルクスをもとから批判的に読んできた方たちから見れば、そんなこと今更なぜ気付くんだ、最初から分かるだろうにと言われそうな程度のことで、恥ずかしくもあるが、なぜそこを考えなかったのか不思議である(そこには「洗脳」というものの本質、人間がものごとを「信じる」という行為の本質が関わるのかもしれない)。

ここにこういう文章を書いてはみたものの、もはや私にとって日本共産党がどうとかいうレベルで批判的なのではない。私は、マルクス、エンゲルス、 レーニンといった古典のレベルで社会主義に疑問がある。日本の共産党は、1990年代のソ連・東欧社会主義国の崩壊に際して、あれは本来の社会主義ではな いから自分達が社会主義をめざすこと自体には何も問題がないというスタンスをとってきた。たしかに「自主独立」を一貫して掲げてきた日本共産党は、他の社 会主義政党とは違うように見える。しかし、マルクス主義は政治理論としては完結していない理論である。完結していない後の続編は、社会主義理論が誕生した 後のいろんな政治家・理論家によって補足されて発展してきた。そして後世その理論を発展させた人達は、社会主義の正しさを前提とした思考に固執し、そこに 疑問を抱く同志たちを自分たちの理論活動そのものから排除してきた。結果、社会主義の運動は硬直した近視眼的なものとならざる得なかった。これは、政治的 組織が、優れた前衛によって構成された実践的な戦う組織となるための必要悪であり、組織が必然的に持たざる得ない自己矛盾である。

組織が抱える自 分自身のそうした不可避的な傾向の結果、マルクス自身が見落としていたことを、やはり後世の社会主義運動も見落とし続けたまま彼らは発展してきた。「科学 的社会主義」の"科学的"という言葉には、そうしたこの運動の持つ独善性と自己矛盾がよく表現されている。しかし、社会主義運動を支えるはずの人間、そし てそのあつまりとしての大衆というものは、マルクス主義が考えるほどに道徳的な存在ではけっしてない。社会変革に目覚めた群集や組織というものへの、ある 種楽観的・性善説的な捉え方が、マルクス主義の中に救いようの無い欠落点を作りだしてはいないだろうか。政権をとった群集のなかからは必ず、労働者階級と いうひとつのくくりでは捉え切れないいくつかの階層が出現する。そこから新たな統制と差別が不可避的に生まれる。政権をとらずとも、その現象は日本共産党 のような組織構造の中にも自然と生まれてくる。それはいわば、「欲」というものから逃れることのできない人間存在そのものから生じる、避けがたい落し穴な のだと思う。

格差が問題になっている今の日本、本来日本共産党のような政党を支持してくれるはずの貧困層やそこに居る若者たちから、共産党は支持されていない。 日本の国民はそうバカじゃない。多くの社会主義国が崩壊し、その内実が暴かれるようになった今日、社会主義をめざせばそこに新たな統制と差別が避けがたく 生まれてくるということを、みんなは何となく時代の空気として読み取ってしまった。日本共産党の減少傾向がどうにもならない本質的な理由はそこにある。一 人ひとりの共産党員はとてもまじめで誠実、国民のためにとてもよく働いているのに、それが組織として集まり、たとえ段階的だろうと何的だろうと社会主義を めざす政党という形をとったとたんに別の顔を持つのである。これは名前だけ変えてみてもどうにもならない問題である。

結局日本の共産党だって、崩壊した外国の共産党と同じ基本的問題を抱えているのだ。これは偏見でも反共でもない厳然たる事実である。かつての古い社 会主義国の多くの指導者が歴史的極悪人だということは事実だが、スターリンだったから、毛沢東だったからとか、ソ連の生まれた時代性がそうさせたとか、そ ういうことはより根本にある矛盾のあらわれであると私は考えている。社会主義運動の抱えるこの根本的欠陥が、それぞれの国民性に応じた出方でその問題点を 顕在化させるにすぎない。ソ連ではスター リニズム、中国では文化大革命、日本ではいかにも日本人らしい村八分的陰湿ないじめという形で顔をあらわす。筆坂さんの本はそのことを、やっぱりそうだっ たのかということとして、内部から、そして中枢からはっきり見せてくれた。

-----------------------------------------------------------------

左翼を批判することは「弱いものいじめ」にしかならないと言われる時代になって久しい。かなり昔だが、テリー伊藤あたりが日本共産党についての ちょっとふざけたノリの本を出した事があった。外部の人が「共産党がんばれ」的な評論をすることは、左翼批判=弱いものいじめと言われる時代になってから 時々見られる。ただそれらは、あくまで日本共産党のことを興味本位で語れる外部の人だからできる表現である。もちろんそうした論評も、内容によっては十分 価値があると思うが、筆坂さんの本はそうしたたぐいの論評とは全く違うスタンスで書かれているのだということを強調しておきたい。実際に党を信じて何年も 活動してきた人間が外から組織を見る目には、どうしても「憂い」が滲む。有田芳生氏しかり、萩原遼氏しかりである。そういう人間にとっては、日本共産党と いうものそれ自体が、「裏切られた革命」なのではなかろうか。彼らに対して日本共産党が辛辣に批判していること自体、彼ら党から出ていった人たちからの党 批判が真剣勝負であることの証拠だろう。少なくとも誠実に活動してきた人達であればこそ、外に出て党を見る時に、どうして不真面目に興味本位になれよう か。どうして憂いなしに振り返られようか。だとすれば彼らの思いを簡単にはねつけてしまう組織の姿は、何と小さいことか。そんな組織がはたして民主的で人 間的だろうか?

職場の休憩時間などで若い社員に共産党の話しなどしようものなら、「もう絶滅品種ですからね〜」などという言葉が返ってくる。私の勤務先のある大阪 市内では、選挙のたびに運動をしている支援者は、ここ数年見ていてたいてい年配の方たちである。大多数の若者は、もはや共産党に興味すら持ってくれない。 共産党員の年齢構成が、高齢化が進む社会全体よりももっと高齢化してきているのは、外から見ていても明らかだ。今定年を迎えつつある団塊の世代が、もっと 高齢となる近い将来、組織がふるえあがらざる得ないような大洪水がやってくる。しかし、内部でがんばっている共産党員の人達にとって、その災難はどれほど 深刻なものとして受け止められているのだろうか?

ネットを漁っているかぎりでは、一部の共産党員は早くから内部へと疑問を投げかけているようだ。しかし、私の知っている党員には、そうではない人達 が多数居る。すさまじく鈍感な、洗脳から抜け切れない人達...。たまたま社会福祉や医療などの仕事をしているせいで、日常的に接するまわりの人に共産党 員が多い人達。彼らは本来自分達が支持基盤とすべき、国民の大多数を占めるプロレタリアートの世界、つまりは共産党の外にひろがる普通の人々の世界との生 活実感がどこかずれてしまいかねない。投票率が上がった選挙結果の、その外見上わずかにのびたように見える得票数をもってして、あたかも多少の前進があっ たかのように語れてしまう神経とはどういうものか。赤旗に載せられる、そんな総括とも呼べない欺瞞的選挙総括をうのみにして、党員どうしの閉じた会話の中 でうなずきあって、キズをなめあっている、そんな悠長な時代やおまへんで!

共産党の目指すような社会主義に代わって、いったいどんな社会を目指せばよいのか、どんなことを理論的支柱とすれば次の時代が見えてくるのか、多く の人達と同じで私もやはり分からない。それが見えてこないことが苦しいと思うこともある。しかし、少なくともはっきりしているのは、社会が、心の自立した 人間の集まりとならなければ、本当に民主的な世界はやってこないということだ。「群れから疎外される恐れ」が「ものごとを信じる心の仕組み」を支えている という、無意識の構造に気付くべきである。内部に向かって閉じていくような、腐り始めた組織を支えているのは、大義名分やあるべき理想ではなく、実は構成 員の「信心」にすぎない。今からでも自分の脳で考え、自分の言葉で語る訓練をしていかなければ、みんな洪水に流されてしまう。組織に居るから、お世話に なっているまわりの人がみんなそう言うから、尊敬している人がそう言うから、だからといって自分の言葉で考えて何が悪いのか!個人の意識の成長を疎外する ような、自分の言葉でものを考えられなくなるような、そんな組織が民主主義を目指すのだというなら、それはすでに言葉として自己矛盾ではないだろうか。

私の古い友人で今も共産党員である者の中には、こうしたものの見方を「評論家的」であるとして嫌う者も居る。日本共産党とともに実践を行わないことが犯罪 的であるのは、その運動が正しかった場合だけである。共産党イコール平和ではないし、共産党イコール民主主義ではないのだ。
今の状態が続けば、日本共産党という組織は、そのやがて来る「大洪水をザルでおさえようとしている」。今、日本共産党で真面目に活動している同志に、私はけっして悪口ではなく真摯な気持ちで訴えたい。日本共産党員にとって、もはや評論家を評論している時代は終わった。あなたがたは自分達自身の組織と心の内部に批判的検討を加える以外、生き残る道は無い。

過去の個人的な出来事については以下にほんのさわりだけ触れるが、いずれしっかりした別の記事を書こうと思っている。組織への私の疑問は、ある障害者の死 という重い出来事からはじまっただけに強い。共産党のめざす未来が、私がかつ てそのミニチュ アとして体験したような奇妙な世界ならば、私は明確な意志をもってそれを拒否する。マルクスの言う「社会発展の法則」の結果やってくる世界が、私がS君の 悲惨な水死体を前にしたときに居たあの世界に似ているならば、私はその「発展法則」を断固として拒絶する。今までずっといろんなことを考えてきたので、思想的に立場は明確であるし、今後もゆるがない。

もはやこういう文章をネットに掲載することに、いささかのためらいも感じなくなった。

=================================================================

  • 日本共産党  筆坂 秀世(著) 新潮新書

Fudesaka_book 最近立ち寄った本屋に、この本が新刊書で並んでいるのを見た時、思わずそこに立ちすくんでしまった。そしてこの本を手にとり目次を見て手に汗が出るのを感じた。筆坂秀世さん、忘れるはずもない。私が党員だった頃、若手の中心的存在だった。

日本共産党について書いた本というのも、ほんとにピンきりだ。実際共産党を攻撃することが目的で、ありえないことをでっちあげて、あからさまにどこかの党利党略で書かれたいいかげんな本も多い。ところがこの本は違う。

日本共産党は、外国の党と違って「官僚主義的で独裁的な共産主義の顔」を持たないということを、しきりに強調してきた。私はかねてよりこのような党の「つ くられた外見」に疑問を抱くようになった。実際には、そのあらわれ方や行なわれ方は違っていても、裏切り者への粛正や弾圧と言ってよい行為が存在する党で あることは、中に入ってみればよく分かる。

著 者はセクハラ事件をきっかけに党を辞めたと聞く。しかしそんなことはこの本の内容とは関係なくどうでもいいことだ。むしろセクハラのことばかり強調して見 る人に、本の内容から外れた議論をなぜわざわざするのかという奇妙な意図を感じる。当の事件とやらはきっと本人の書いている程度のことなのだろう。本を読 んでみれば分かるが、この著者は党の幹部であった頃から根本的な党への疑問を抱いており、多少ながらも不破氏やその他の幹部に意見書などを出していたりす る。それはこの本の後半、特に自衛隊問題などをめぐっての部分に読みとれる。筆坂さんへの措置が出来事の内容に比して不当なものであっただろうことは、実 際に「セクハラ現場」とやらにいた筆坂さんの秘書が、党中央の措置に納得できず抗議の離党をしていること、さらに筆坂さんの妻も同じく抗議の離党をしてい ることから窺い知れる。これは私の想像の域を出ないが、おそらく筆坂氏は党内でだんだん疎んじられる存在になり、何らかの粛正的意図を背景に"はめられた "のではないだろうか。実際そうゆうことが行なわれ得る組織なのである。

党を経験したことのない人なら、「辞めてからこんなことを書いて 卑怯だ」と捉える批判があって当然だろうし、そのことを著者自身最後の方で自戒を込めて述べている。ただ、一党員経験者として言わせてもらうと、党員であ る限りこのようなことを言ったり書いたりは、けっして出来ない!!...それが日本共産党なのだ。

-----------------------------------------------------------------

実は私もかつて熱心な党員だった。ところがある事件をきっかけに党組織に対して深い疑念を抱くようになった。

私は20代の頃、名古屋にある、その世界では有名なある障害者施設で働いていた。そこは職員の95%が日本共産党員という、ある意味特殊社会だった。その 施設で、一人の共産党員幹部 が入所者にはげしい暴行をはたらいた。暴行されたS君は、その頃仕事上の悩みからうつ病で、暴行された翌日自殺してしまった。暴行をはたらいたのは、幹部 も幹部、その施設が無認可だったころからがんばっていた2名の創立メンバーのうちの一人で、当時の党支部長だった。ただ、その幹部の暴行とS君の自殺の関 連が明らかになったのは、事件から2年もたってからだった。

私はその自殺したS君の担当で、彼が施設を飛び出して用水に入水自殺する前日の当直職員だった。そして偶然にも、その前夜の当直時、眠れないといって深夜 に起きてきたS君を何とか寝かせようと話しているうちに、彼の顔から上半身にかけて異様なアザがあることに気付いてしまった。青アザというよりも赤黒い内 出血のあとが、体中にあったのだ。いろいろ原因を想像はしてみたが、その時は本人も理由を言わないし、精神的に不安定でとりつくしまもなかった。何があっ たのか後で落ち着いてから聞くしかない、そんな状況だった。S君はもともと暴れん坊で喧嘩っ早い性格だったので、普段から怪我も多かった。そのことがま た、暴行されたことと異様なアザとの関連を隠してしまった面もあった。そこにまさか、一番信頼していた施設の主任であり、党支部長であった人物のとんでも ない暴力があったとは、誰も想像すらしていなかった。

翌日の朝、緊急に彼を病院に連れて行く必要があると、私は昼勤の職員に申し送った。しかし不幸なことに彼は病院に行く前に施設を飛び出してしまい、 行方不明となる。出て行く直前まで、S君は部屋にひきこもってふとんをかぶっていた。また、彼が出て行く姿は遠くから見られただけで、その日の朝彼の体を 直に詳しく見た職員は居なかった。そうしてS君の体に残された暴行の跡を、私以外の誰も見ていないことになってしまった。しかも自殺した後彼の遺体がしば らく見つからなかったため、溺死した彼の体は、本人かどうか見分けられぬほどいたんでしまった。結果的に私は、彼の体に刻まれた暴行の跡を知る、唯一の人 間になってしまったのである。

彼が自殺した後も私は、死の直前にあったそのアザについて、何か奇妙な腑に落ちないものを感じていた。その思いは何 か暗い点となって、それからもずっと心の奥底にこびり付いていた。S君の自殺についてはある程度の総括が施設職員でなされたものの、どこか表面的なもの だった。ある時期まで私は事件についてもっと考えなければならないということを会議の場でよく口にしていた。もちろんそれを口にしていたのは私だけではな かったし、事件からしばらくは深刻な問題として職員どうしの会話にのぼった。

しかし言い方は悪いが、職員の中ではあくまで自殺として認識されてい た。自殺に至ったS君の悩みについては話されても、死ぬ直前にあった密室での恐ろしい出来事など、何も知らない大半の職員たちにとって誰ひとり想像できる はずもなかった。だからと言っていいのだろうか、半年、1年とたつうちに、私も含めた職員全体の中で、その事件への意識も弱くなり、あまり語られなくなっ た。またその後、他の子の指導方法をめぐっての職員間の食い違いなどの中で、今度は私自身がうつ病ぎみになり、いたずらに時間が過ぎていった。

ところが事件から2年目の秋に、親しくしていたある職員からの私への告白によって、事は急転する。その職員は幹部の暴行をその目で見ており、なかな か言い出せないでいたのだった。彼女の目撃と私の目撃がこの時はじめてつながった。結局事件は裏側で、職場の一部の幹部、おそらくは当時の施設長と実際に 暴行をはたらいた幹部との間で秘密にさ れていた。理由は事件が明るみにでた場合に、職場の共産党組織が外部から激しいバッシングにあうのを恐れたからだと考えられる。ようするに事件を、職場の 共産党組織の一部の幹部が隠蔽したことになる。彼らは、一人の障害者の死の原因、ひとつの犯罪よりも、組織の安泰を優先させた。

私はその事件が発端で、日本共産党という組織に深い疑問を持つようになった。S君の自殺と暴行事件の関連を施設の理事に暴露した後、職場を辞めた。

----------------------------------------------------------------

あ の頃、なぜか私が抱き始めた組織への疑問を証明するような出来事が多々あった。その後に勤めた職場の民医連系病院で、内科の医長であり党支部長であった医 者が職場の金を横領していたという事件もあり、私はその事件が発覚した時期にその病院に勤務していて、事件直後に大規模な人事移動が行なわれるのを目撃し た。新聞にも載り、警察が捜査に入った大きな事件だった。長く党員であった職員の中にも、事件をきっかけに職場を去った人が何人かいる。私は直接その事件 を詳しく知る立場になかったが、私の中で、前の施設で感じた疑問が、個別の職場の問題や事件に関与した個人の人格の問題といったレベルではなく、日本共産 党という組織そのものへの疑問につながっていく大きなきっかけになった。私はその民医連系病院をわずか4カ月で辞職。それも試用期間が終ってせっかくOK してもらった正職員への辞令を上司の前で明確に断るという、じつに失礼な辞め方をした。党員の知り合いからはボロカスに言われた。しかしいくら批判されよ うと、辞める事にいささかの迷いも無かった。それほど自分の中で、共産党という組織への疑問が大きくふくらんでいたのだ。

辞令を断ったことに驚い た人事部長が、「君がこれから何をするのかは知らないが、これから先君が我が方の路線にとどまってくれるのかが気になる」と尋ねてきた。私は 「我が方という言葉自体が、あなたの住んでいる狭い世界の言葉にすぎない」とやり返したのを鮮明に覚えている。

このころ行っていた労働学校の最後の授業で、私は教師であった大学の教授に質問した。「民主経営でも労働者への搾取はあるのでしょうか?」ある意味社会主 義社会での労働というものをも意識した質問だった。民主経営であっても搾取はあるにきまっているのである。ただそれを共産党員どうしの中では、搾取と呼ば ないだけだ。それを分かっていてわざと聞いてみた。何か党員の日常の中にあるベールのようなものをバッサリはがしてしまいたい、そんな気持ちが私の中に あったと思う。そのときの教授は党員だったが、けっして日本共産党に全面賛成というタイプの人ではなかった。教授は私の意図をうっすら感じたのだろう。少 しためらいながら、「民主経営にも搾取は存在します。」と明確に答えて、私と目を合わせた。

私 にとって仕事を辞めることがすでにそれだけの意味ではなくなっていた。自らの激しい暴行で人が自殺に追い込まれたのに、平気で社会福祉の仕事をしている共 産党員。それを知っていて、組織の利益や体面を優先させ、真実を隠そうとする党員。真実を知らないまま、組織の上の者の言う事をそのまま信じて、結果的に 組織の矛盾に加担している党員。苦しんでいる同僚の心を聞く事すらできず、党の規律を基準にしてしか人を見ることのできない党員....。そんな共産党員 に、自分達と一緒に社会変革のために戦おうと言われても、いったい何の説得力があるだろう。私は共産党員という人種に何の魅力も感じなくなっていた。共産 党員の居ない世界に行こうと思った。共産党員というものと顔をつきあわせないで働ける職場に行こうと思った。

筆坂さんは、党を辞めた後それまで見ていた世界が違った視点から見えてきたということを書いておられる。私もあの頃から、それまで見えなかった世界が見えてきた。

-----------------------------------------------------------------

ソ連が崩壊しベルリンの壁がなくなる数年前のこと、私は党組織に党の路線と社会主義についての疑問を綴った長大な論文を書いて提出し、そしてすぐにではな かったがその数年後離党を申し入れた。論文が問題視されたのだろう。離党届けははっきりと受け入れてもらえず、半年以上ほったらかしにされ、一時は除籍さ れるのかとも思ったが最終的には受け入れられた。

ある日、転籍先となっていた住んでいた地域の支部長が、離党届けが受理されたことを知らせに来た。

共産党員というのは、毎日赤旗を読んで身 の回りの現実の捉え方とか対処方法というようなものを学ぶ。自分の意志でそれを学んでいるつもりでも、実はそれは長い物に従順に従って、上からの指示どう りの世界の解釈方法を植え付けられているだけだ。自分の知らないことや簡単には分からないことに対しては、簡単に答えを出さずに考え続けるという姿勢がと ても大切だとわたしは考える。もしその考え続けるという行為をいっしょに支えあっていける仲間が居るなら、とても素晴しいことだ。自由な議論は人を育て る。その意味では、共産党という場所はあまりよろしくないかもしれない。結論を保留することは、思考停止ではないのである。むしろ現実を共産党の色めがね でしか見ずに簡単に解釈してしまうほうが、ずっと思考停止なのではないか。そんな共産党員の何と多いことか。

そのとき離党届けの受理を知らせに来 た支部長は、一言「やはり東欧問題で日和ったんですか〜。」といって、こちらの意見もまともに聞かず、最近そんな人が多いんですよね〜という話を、一方的 に長々と話し出した。しばらくはがまんしていたが、やがてわたしは「もういいから帰って下さい」と頼んだ。ドアを閉めながら、心の中で苦いものを飲み込む ように「最低だ!」とつぶやいた。東欧革命が一定落ち着きはじめた1990年代はじめの出来事だった。

90年に起きたある哲学者をめぐる事件は、私の党への疑念に拍車をかけた。90年3月6日、大学時代から尊敬してやまなかった哲学者、古在由重さん が亡くなられたのだ。その際、赤旗は弔辞を載せなかった。一般紙が載せているにも関わらずである。抗議の電話やFAXが党本部に殺到したのは有名な話だ。 後で赤旗に載ったそれについてのわけの分からぬ釈明言い訳文を読んだ時、赤旗を持つ自分の手が震えるほどの不快感を感じた。

古在さんは、1984年7月10日、原水爆禁止世界大会準備委員会の運営委員会で、友人であったある委員の罷免をめぐって党と対立、その後共産党から除籍されていた。戦前から時代の不正と戦ってきた不屈のマルクス主義思想家であった。
ある者がどんなに一般の人々と苦労をともにしてきた偉大な人物であったとしても、党が彼を「裏切り者」であると判断したなら死んでも葬式すら列席しない、日本共産党はそういう組織である。

 

----------------------------------------------------------------

あれから10数年、インターネットの時代になり、いろんな情報が手にはいるようになり、以前は信頼できる友人にしか話すことの出来なかった個人的な本音と いうものが、ネットの世界に書かれるようになった。この文章もその一つであろう。例の名古屋の施設をネットで検索すると、障害者の親や今勤めている職員た ちの本音を見る事ができる。私が思っていた以上に、あの職場は奇妙な職場になってきたそうである。共産党のほうも、ネットを通じて組織とは違う自分の本音 を発言する党員という存在が現れている。インターネットという目に見えない一般大衆にむけての個人的意見の発露は、民主集中制の原則から言って明確な規律 違反となるものであり、昔であればまず考えられない現象であるが、これも組織が変るために必要なカンフル剤となろう。

そして今、どんどん勢力の衰えていく日本共産党を横目に見ながら、私は暮らしている。赤旗の読者数はどんどん減り続けている。党の発表する公称40万と言 われる党員数も、党費を収めている党員という程度のレベルでしぼれば26万人程度。国民のわずか0.2%ちょっとである。そんな数でいったい何をやろうと いうのだろう。私は年をとるたびにこう思うようになった。「あの時共産党を辞めて本当に良かった!自分の判断はとても正しかった」と。実際にはそれでも選 挙のたびに、共産党とその候補者に1票入れている。日本の政治に本当に民主的な意見が言える政党は他にないのだ、だからこそもっともっと変って欲しいの だ。こんな思いを抱いている支持者や私のような元党員、党費を収めているだけのような周辺部の党員、そんな人達はどのくらいいるのだろう。
一説では除名・除籍・離党者の総数は、現在の党員数を上回るという。その人達の声なき声がなぜ党にはとどかないのだろう。

筆坂さんの本は、まだ出版されて日も浅い。なのにアマゾンなどでは、さっそく一部の方がぼろカスにけなしているのが目に付く。党外部の方の批判といかにも 党員の書いている批判文というのは、すぐに区別がつく。おそらくは、そういう人の多数は「熱心な」党員であるのだろう。そういう方は本当にこの本の内容を 読んでいるのだろうか?そういう党員は、党外の人から見れば、赤旗が批判文を出したら、それをそのままオーム返しにしているように見える。がんばっている 日本共産党の党員ほど、自分の頭と言葉で考える能力を失っているのだろうか?

この本が出た後、党の正式な批判文が赤旗や党の公式サイトに掲載された。それを受けてあるインタビューで答えた筆坂さんの次の言葉が印象的だった。「党は 私に共産党を支持しないでくれと言うんでしょうか?」がんばっている多くの党員は、まともな自民党政治批判やアメリカ批判をやっている時以外の、何気ない 雰囲気や態度やちょっとした言葉で、党への支持を失っている。なぜそのことに気が付かないのだろう?一般企業に勤めて、普通の労働者=いわゆるプロレタリ アートと呼ばれる人達と日々働いている今現在の私は、なぜ日本共産党が嫌われるのか、その理由をこの耳と肌と臭いで感じるのだが...。

書物というのは、読む人の考えや立場によって様々に解釈されるのだから、外部から冷静かつ批判的に見ている方たちから見れば、例えば「筆坂、おまえもどう せ一緒にまちがったことやってきたんだろう。いまさら何書い てるんだよ。」といった意見が出ても当然であるし、またそういう意見が間違っているとは少しも思わない。実際筆坂さんも、今までの共産党を担ってきた幹部 として批判される面が多々あると思う。ただこれからのことを想像すると、いつも繰り返されてきた共産党おとくいの例の批判キャンペーンのパターンが私の目 に見えるのである。これからこの本が、もっともっと当の共 産党から粉々になるまで、それこそ引用文の一字一句を引合に出して、「ここの解釈がおかしい」とか「この引用の仕方は部分的であって、読者の目をごまかそ うとしている」「意図的な作為を感じる」などなど...、いつも赤旗に載っている政敵に対するねちねちした例の批判パターンの対象にされ、もっと昔、中野 重治やその他の人々がそうであったように、筆坂さんの名前は党の歴史から抹殺され、熱心な党員ほどまるでどこかの宗教のように党の言い分を信じるのだろ う。そういう党の奇妙さが、一般の国民からどう思われているのかふりかえりもせずに...(そして党はますます小さくなるのに)。

でもだからこそこういう本が貴重なのだ。著者が言うように「正しい共産党」など正しくない。日本共産党に疑問を抱いて離党した多くの人々はそう思うだろうし、普通の感覚を持った多くの国民の皆さんのためにも、こういう本が存在してほしいと思う。いろいろ批判があっても、このような文章を世に出した著者の勇気に敬意を表したい。私は心から応援する。