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2007-12-17

「自由をいかに守るか-ハイエクを読み直す-」

  • 自由をいかに守るか-ハイエクを読み直す-」渡辺昇一著 PHP新書

ハイエクをまだ読んだことがなかったが、経済誌に載っていたハイエクの言葉の断片に魅かれてこの本をたまたま手にとった。著者の、いかにもお金持ち的な発想がたまにちらっと顔をのぞかせるのが嫌だったが、ハイエクという思想家を知る貴重なきっかけにはなったと思う。少し前から、ハイエクの思想は、ネット社会の分散的な経済活動と個人間の自由な交流の重要性を予見していたものとして注目されているようだ。しかし、日本ではハイエクの情報や文献が非常に少ない。

この本の内容は、ハイエクが1944年に書いた「隷従への道」という古典を読解するもので、正直言ってわりとおんなじ話のくり返し。興味のない人に は飽きてくるのではないだろうか。ただ、この本のできの善し悪しよりも、ハイエクという人の思想が非常に先見的であったことがわかって関心する。ただ「隷従への道」はハイエクの主著ではないので、その解説からハイエクの全体像を知ることはできないと思う。

「隷従への道」は統制社会への警告書である。ハイエクが想定する統制社会には、スターリニズム下の社会主義国家も含まれるようだが、それよりもハイエク自身が体験した戦前のドイツ社会とナチスの体験を踏まえていることが重要だと思う。保守系のプロパガン ダには、例えば多数の自国民を虐殺したという共通点だけから、ナチとスターリニズムを同一視したりする単純な論調があったりする。しかしハイエクが言いたいのは、経済を統制することが単に経済的なものへの統制に留まらず、必然的に人々の生活・文化・思想・政治環境などすべての統制に至るということだろう。

つまり理性による計画性や計算可能性への過度な信頼が、逆に人間の自由を奪うというパラドクス。全体主義的な計画性よりは、分散した少集団の集まりによる自由な活動と、それらが自然発生的に生み出す動的均衡のほうが無害で有益であると、ハイエクは考えたのではないか。それは、アダム・スミスの言った「神の見えざる手」への信頼だと思うが、ハイエクの場合そこからさらに進めて、経済現象のような複雑怪奇な構造の前では、人間の知性は無力だという考えがその根底にあるように受け取った。アダム・スミスのような近代市民社会への楽観主義だけではなくて、ヒュームのような科学的知への「不可知論」に近いと見えるが、実際ハイエクはヒュームに影響されたらしい。

そこを理解しないから、ハイエクが新自由主義の経済政策の中で語られるからと言って、ミルトン・フリードマンと同列に置くような誤解が生まれるのだろう。僕は経済学には疎いけれど、フリードマンの唱えた経済学は、自由放任の経済効果を統計的資料に基づいて数学的に証明しようとする方向が強いと受け取っている。ハイエクは、こうした意味での「計算可能性」をも痛烈に批判している。

ハイエクが誤解される背景には、サッチャーやレーガン政権の思想的バックボーンとなったことがあるようだ。実際サッチャーなどは、ハイエクの著書をバイブルとしていた。

現実の世界でそれら政治家の時代は、アメリカもイギリスも効率的な経済復興を実現させたが、戦後の産業資本主義がポスト産業資本主義へ向かう道程として、そこから始まるグローバルな資本主義の端緒であったからこそ、ある程度の成功が得られたのではないかと思う。今から振り返れば、例えばレーガノミクスは、現在の市場原理主義の始まりと見なせるので、むしろ弱者に は冷たい社会の始まりではなかったか。

ハイエクの思想を、単純に自由放任の市場原理主義と結びつけるのは浅すぎる捉え方であって、実際ハイエク自身は、国民生活や貧困の問題に無関心ではなかっただろう。全て自己責任とする経済的自由は、時として人災をもはらんだ 暴力になるが、ハイエクはそんな「放任」を無条件に肯定していたわけではないと思う。経済の政治的統御を単純に嫌ったのではなく、経済のもつ自然治癒的能力や自由を侵害する統制を嫌ったと解釈できる。その証拠に「隷従への道」には、次のような言葉がある。

「われわれは、貧困者たちができる限り自分たちの力で生活基盤を確立し、生活水準を向上させることができるよう、なんとしても援助の手を差し伸べることにしよう」

つまり商業社会には、人々の平均的豊かさを生み出す自然発生的能力があること、ある種の行きすぎた「計画性」は、そうした自然発生的能力を疎外するということであって、むしろ、その能力を発揮させるための政治的コントロールは必要であるという発想をしていたのではないだろうか。


ただ、現在の資本主義社会のように、自由社会という言葉と資本主義社会という言葉が厳密な区別をせずに使われている時代に、こうしたハイエクの論理を無条件に受け入れるのには抵抗がある。また実際、現代のアメリカに見られるような資本主義は、ハイエ クが考えた理想の自由を実現する体制ではないだろう。

金融危機で露なように「神の見えざる手」は十分機能していない。今の社会にも経済的自由を統制する要因はもちろん多くあるが、本質的原因はそこではないだろう。「見えざる手」が機能しないのは、(フリードマンの説のように)そこに「自由」を疎外する何らかの統制があり、それを取り除けばよいというものではなく、「神の手」そのものに内在的な矛盾が含まれているからではないのか。そのことを経済学の素人でもうすうす直観し始めている。よく専門家が書いている「ハイエク問題」がいつまでも論争されるのも、ハイエク自身、資本主義に内在する矛盾をどう捉えるかについて結論が出せなかったからだと思う。晩年のハイエクは、「自由」を維持するにはそのためのメカニズムが必要だと考えていたようだ。

渡辺昇一氏のこのハイエク本では、こうした視点でのハイエクの批判的評価が全く見られず、この点においては得るものが何もない。経済学者じゃないからしかたがないが、読みようによっては、ハイエクの主張を単純な反共プロパガンダに狭めているようにも取れるのがかなり残念。


とは言え、現存のあるいはかつて存在した社会主義や全体主義国家への批判という意味で受けとるなら、ハイエクの言葉はきわめて先見的で深い。だから反共プロパも多少は意味があるかもしれないな(笑)。実際この本の主眼もそこに置かれているんだろう。

ハイエクは「マルクス主義を殺した思想家」だと言われる(この新書の元本のタイトルでもあるらしい)。国民生活を改善し社会の平和と民 主主義を守り発展させてくれるだろうという理由だけで、自身の党の存在必然性を信じる人が、日本の共産党員などでも多いようだが、彼らは党が目標とする社会主義的世界がどういうものかなど、おそらく真剣に考えたこともなく学習もしない(御用学習はするが)。だから彼らの頭 の中では、共産党イコール平和、共産党イコール民主主義などの形で、概念が癒着してしまっているので、党を支持しない人間は 道徳的ではないように思え、党に意見する者に批判的になれる。しかしハイエクが強調しているが、_道徳的に正しい運動を行なっている人間だから、その人間が道徳的な人間であるとはかぎらない

統制された社会ではな く、人間の自由な社会をというハイエクの思想は人間をどう捉えているのか。その点は、やはり「隷従への道」にある次の言葉に集約されていると思う。

「個人主義の本質的な特徴とは、人間としての個人への尊敬である。」

個人主義という言葉は、日本ではあまりいい意味で使われないが、ハイエクの言う「人間としての個人への尊敬」という意味での個人主義を、現代の社会主義も資本主義もともに実現できていないことをよく考えてみようと思 う。

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