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2008-02-03

さよなら共産党〜名古屋の「ゆたか福祉会」でかつて起きた、障害者への暴行事件について

私はかつて熱心な日本共産党員でした。ところが、大学を卒業して最初に就職した社会福祉の職場で、ある事件に出会いました。その事件をきっかけに、やがて党組織に深い疑念を抱くようになりました。

これは極めて個人的な経験です。若い頃に出会った、日本共産党にまつわる忘れられない出来事です。

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20代前半頃、私は、名古屋にあるその世界では有名な福祉法人「ゆたか福祉会」で働いていました。そこは職員の95%が日本共産党員という、ある意味特殊社会でした。今現在の「ゆたか福祉会」は以前よりずっと大きくなったようですが、私が居たころもやはり拡大期で、施設数もすでに5〜6へと増加していました。

施設が増えるわけですから当然人員の募集があり、私が居た日本福祉大学にも「共産党員の学生から指導員等を7名募集している」との情報が、大学の学生課を経由して学生自治会に入りました。大学2年で共産党に入党、社会福祉学部1部の自治会執行委員を3年次にやっていた私には、その情報は早く伝わりました。障害者問題のゼミ(大泉ゼミ)で勉強していた私には絶好の機会でした。4年生の2月頃だったでしょうか、ある雨の日の午後、当時の福祉会の西尾理事に面談してもらい、私は知的障害者の生活施設「ゆたか希望の家」で指導員として働くことが決まりました。今思えば、共産党的な、ある種の"裏口就職"でした。

事件は1983年の暑い夏が終わる頃、その「希望の家」で起きました。

あらかじめ誤解無きよう書いておきますが、これは今現在の「ゆたか福祉会」の話ではありません。私が辞めた後の福祉会も様々な問題があったと人伝に聞いていますが、今は職員の方によって改革が進み、かつての共産党的な要素から来る問題は和らいでいると聞きました。私はわずか3年あそこで働いただけです。そのような短い経験の者がこんな古い事件を書いているにすぎません。今の「ゆたか福祉会」とは関係のない内容と考えてください。

ただ、私が辞めてかなり経った頃「ゆたか」の歴史を書いた本が出版され読みましたが、この出来事はわずかに数行触れられているのみでした。当時そこに居た、特に職場の幹部であると同時に共産党組織の幹部でもあった、今は高齢であろう方たちは、この事件の後、本当の意味で本質を考えたのか?そこに疑問が残ることは、この事件の後「ゆたか綱領」なるものが出現し、様々な労働争議を抱えていった職場の歴史が語っているでしょう。

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「ゆたか福祉会」では、そこに通う障害のある人たちを「なかま」と呼びます。私の勤めていた「希望の家」は2階建ての施設で、男女それぞれ1階と2階の2フロア、2人ずつ住む部屋が各フロア5つほどだったと思います。24時間体制で多くの「なかま」が寝食を共にし、そこから法人内の作業所に皆で働きに出かける毎日でした。私はその1階男子の担当指導員でした。

そこにこの物語の主人公S君が居ました。彼が住んでいたのは、たしか1階の一番奥か、奥から2ツ目の部屋のどちらかだったと思います。

S君は知的障害をもち、片方の手足に若干の麻痺がありました。古い記憶なので細かいことは不確かですが、S君の年齢はたしか30前後だったと思います。知的障害の程度は比較的軽かったS君ですが、男気がありケンカっ早く、よく怪我をして顔にアザを作っていました。あの頃法人内に新しくできた「リサイクルみなみ作業所」に通って、空き瓶空き缶の選別作業に携わっていました。それまでよりもっと給料を稼いで、離れたところに一人住んでいた母親に親孝行がしたい、そんな夢を抱いていました。でもいざ新しい仕事を始めてみると、手足に麻痺のあったS君は、まわりの「なかま」ほどには仕事がうまくできない。やがてそんな悩みを抱えるようになりました。当時S君は軽いウツ状態であったろうと、後になって思いました。

1983年のある夏の日、その「希望の家」で、一人の共産党員幹部が、S君にはげしい暴行をはたらきました。夏の暑い日、施設の「なかま」も職員も皆出払っていた時間帯、1階奥のほうにあるS君自身の部屋で、その事件は起きました。静かな廊下にS君の苦痛の叫び声が響いていたでしょう。しかし、それを知っていた他の者はほとんど居ませんでした。

うつ病ぎみだったのに非情にもひどく殴られたS君は、暴行された翌日、「希望の家」の裏手にあった愛知用水の支流に飛び込み、自殺してしまいました。背の高かったS君なので、水に浸かっても足の届くような水位でした。つまり彼は一生懸命死ぬ努力をして死にました。

かつて、知的障害者のことを「ちえおくれ」と呼んだ時代が長くありました。その頃の差別観は呼び名だけではもちろんなく、大学などの障害者研究の中にすらも根強くありました。これは大学時代に私が人から聞いた話ですが、アメリカのある研究者は、「ちえおくれ」は知的に遅れているから、そうでない人のような悩みは抱くことができず、自殺もしないと本に書いていたそうです。そんなことは全くのデタラメです。知的障害があっても、人として人間関係や仕事や将来に悩み、うつ病にもなり、自殺するほど苦しむこともあるのです。S君は、身をもってその事実を示しました。

居なくなった彼を捜索していた時、職員が、小さな橋の上に置かれたわずかな現金の入ったS君の財布を発見しました。おそらくそこが入水した場所だったのでしょう。

暴行をはたらいた男性は、幹部も幹部、「ゆたか」が無認可作業所だったころからの、創立メンバー2名のうちの一人でした。職場の党支部長も経験した「希望の家」の主任でした。普段の温厚でマイペースで楽しげに働いていたその主任の姿からは、想像もできない暴力行為でした。

ただ、その幹部の暴行とS君の自殺の関連が明らかになったのは、事件から2年以上たってからでした。

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S君が施設を飛び出して用水に入水自殺する前日、私は夜の当直職員でした。その日の昼間、S君が激しく暴行されていたことなど誰も知りません。ただ私は、深夜何となく眠れないと言って大好きだったタバコを吸いに起きてきたS君を、何とか寝かせようと話しているうち、彼の顔から上半身にかけて異様なアザがあることに偶然気付きました。「え?いったい何?Tシャツを脱いで見せてよ!」暗い廊下の入り口にあった喫煙コーナーで、蛍光灯の明かりの下、彼の体が見えました。

異様でした。青アザというよりも赤黒い内出血のあとが、体中いたるところにありました。

その時いろいろ原因を想像してみましたが、本人も理由を言わない。精神的に不安定でとりつくしまがない。何があったのか後で落ち着いてから聞くしかない、そんな状況でした。S君はもともと暴れん坊で喧嘩っ早い性格だったので、普段から怪我も多かった。そのことがまた、暴行されたことと異様なアザとの関連を隠してしまった面があったと思います。まさか、信頼していた施設の主任が、とんでもない暴力をふるっていたなど、想像すらできませんでした。

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翌朝、彼を緊急に病院に連れて行く必要があると、私は日勤の職員に申し送りました。しかし彼は朝からふとんをかぶり、部屋に引きこもってしまった。職員が病院に連れていこうとしたものの、部屋から出ようとしなかった。そして不幸なことに、そのあと彼は施設を飛び出してしまい、行方不明となりました。

すぐ病院に連れて行ってほしいと申し送ったのに、日勤の職員の関心が薄かったとすれば、当直明けだった私の伝え方にも切迫感が足りなかったのかもしれません。徹夜明けで帰宅し休んだ後、私は彼の行方不明を知りました。

結果的に、その日の朝から出勤した職員の中には、S君が施設を出て行くまでに彼の体を直接詳しく見た者は居ませんでした。

彼が「希望の家」から出て行く時、その姿は、早番の男性職員に遠くから見られただけだったそうです。その日、その早番の職員は、門のところに居たS君を見つけ「おーいどこ行くんだ?」と遠くから声をかけたのみでした。S君は以前から、勝手に施設を出て母親の住む遠くの自宅に歩いて帰ることがよくありました。その職員もきっとまた自宅に帰ったのだろうと思っていたそうです。ただその時のS君は、遠目に見てもいつも以上に寂しそうだったと、後にこの早番の職員が言っていたのを覚えています。

「ゆたか希望の家」は、どこかの施設のように、門を閉め切ったりして障害者の自由を拘束したりしない施設でした。むしろそういう、おおらかな方針を誇りにしていました。もちろん軽度でない「なかま」を放置したりはしませんし、安全第一です。それに自分で街で買い物できるような軽度であっても、行方がわからないならもちろん捜索します。しかしS君は軽度で、それまで何度も施設を出て自力で帰ってきていました。だからその時、遠くにS君を見つけた早番の職員も、腕づくで彼を連れ戻すなどしませんでした。ある意味その自由さが仇になりました。

何日たっても彼は帰って来ませんでした。S君の実家、知人を訪ねて捜索が始まりました。しかし自宅に帰ったのだろうと誤解されたS君の捜索において、彼が出ていった門とは反対側にあった用水は死角になりました。そして例の橋の上の財布が発見され、地元の消防団の方たちの力も借りて、まさかと思っていた施設裏の用水路の捜索が始まりました。若かった私にとって、消防団の人たちが長い竹の棒で河をさらっていた悲しすぎる光景は忘れられません。

そして何日も過ぎたある日、彼は居ました。

用水が地下の水路へと落ちていくその手前の、水流がどっと流れ落ちるその滝壺のような場所で、落ち葉などが地下水道に入り込まないよう防ぐための大きな金網の中に、ずっと長い間水流に押し続けられて、浮き上がれないまま、水底にS君は居ました。

発見されるまで長かったので、ようやく引き上げられた彼の溺死体は、本人かどうか見分けられぬほどいたんでいました。当然暴行の後のアザなども、すぐには見分けられない状態だったでしょう。私が連絡を受けそこに駆けつけた時、S君のまわりに消防団や警察の他、3人ほどの施設の幹部たちが暗い表情で佇んでいました。私はその幹部の一人から「残念ながらこういうことになった。職場のみんなに連絡しに行ってくれ」と言われました。私にそう指示したのは、後で思えば暴行したその主任その人でした。その時遺体にかけられたシートの端が風でめくれました。ちらっと見えた彼の体の色は人間の色では無く、ありえない方向に手足がよじれていました。私は、全身の血が逆流するかのような、動揺を感じました。

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これがS君の遺体が見つかるまでの顛末です。警察でも自殺として処理され、よく覚えていないのですが、詳しい検死や司法解剖は行われなかったか、あるいは司法解剖が行われても、遺体の損傷が激しすぎて自殺前の外傷を発見するまでには至らなかったのではないかと思います。

こうしてS君の体に残された傷跡を、私以外の誰も見ていないことになってしまいました。結果的に私は、S君の体に刻まれた暴行の跡を知る、唯一の人間になってしまいました。

しかしそれも後で振り返って気づいたことです。その時はむしろ、変わり果てたS君の遺体を見た動揺で、冷静な思考ができませんでした。そして思い出せば、施設で待つ他の職員や「なかま」たちにS君の死を連絡しようと、来た道を帰り始めたその時から、私の心に少しずつ欝が巣くい始めたように思います。

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彼の遺体が発見された後も、私は、死の直前にあったそのアザについて、何か奇妙な、腑に落ちないものを感じていました。その思いは何か暗い点となって、それからもずっと心の奥底にこびり付いているようでした。それは言葉では簡単に表現できない、どこか重たい感覚でした。

職場では、S君の自殺について、ある程度の総括が職員会議でなされたものの、どこか表面的なものでした。2度とこんな不幸なことが起きないよう、「なかま」たちの生活をどう改善していくのかという点が議論の主体で、S君に何があってこういう事件が起きたのか、そこを具体的に掘り下げる議論はありませんでした。後で思えば、そうした議論は意図的に避けられていたのかもしれません。そしてそんな方向に議論を主導していったのは、「希望の家」の当時の所長でした。その所長は、暴行をふるった主任と共に、2人で福祉会を創設した人でした。

ある時期まで私は、事件についてもっと考えなければならないということを会議の場でよく口にしていたのを思い出します。もちろんそれを口にしていたのは私だけではなかったし、事件からしばらくは深刻な問題として職員どうしの会話にのぼっていました。

しかし言い方は悪いですが、職員の中ではあくまで自殺として認識されていたのです。自殺に至ったS君の悩みについては話されても、死ぬ直前にあった恐ろしい出来事など、何も知らない大半の職員たちにとって誰ひとり想像できるはずもありませんでした。

だからと言っていいのでしょうか、半年、1年と経つうちに、私も含めた職員全体の中で、その事件への意識も弱くなり、あまり語られなくなりました。またその後、他の子の指導方法をめぐっての職員間の食い違いなどの中で、今度は私自身が本格的にうつ病ぎみになり、いたずらに時間が過ぎていきました。

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しかし私の中では、完全にS君の事件のことを忘れられたわけではありませんでした。

詳しいことは長くなるので省きますが、働き出して2年目の後半から3年目、私は仕事上の悩みから実際に精神科を転々としていた時期がありました。しかし職場にはそのことをけっして言いませんでした。いや正確に言えば、それを相談できるような職場では全くありませんでした。

当時の職場は、職員間にも様々な出来事がありました。そうした問題を共産党組織は「規律のゆるみ」と捉え、党員職員に党内規律を厳しく自覚させることでのり切ろうと露骨に意図しました。私に対してというよりも「ゆたか福祉会」に比較的新しく入ってきた職員全員に対して、締め付けのような空気が常に流れていました。

暴行事件の数カ月前から、「ゆたか」共産党にはいくつかの「規律違反問題」がありました。職員間の不倫だとか婚前妊娠だとか、今思えば世間的にはさしたる問題でもなく、党外の人から見れば個人的な問題であって、わざわざ何十人も職員を集めて糾弾集会をするような話ではありません。しかしそれが共産党的には、"党員としてあってはならない重大な「モラル違反」を犯した"と解釈されました。

その「共産党的モラル違反」を犯したとされた党員が、査問されたり除名されたりしました。数回に渡る全党員集会が開かれ、問題となった職員の名前と処分が発表されたりしました。

組合委員長の立場だった人物が、ある日突然消えました。この組合委員長は、当時、職場の党組織を仕切っていた人物Mと意見が対立しており、党から「職場不倫の容疑者」とされ、数回に渡り査問されていました(後で書くように、Mは西尾理事亡き後に法人の理事となる人物でした)。

さらにその頃の別の全党員集会では、婚前妊娠という「モラル違反」を犯した女性職員が一人立たされ謝罪文を読まされるといったこともありました。彼女は、大学を卒業して私と同じく「希望の家」に就職した1年目の職員で、日本福祉大学での私の同級生であり、大学民青では私の指導者でした。彼女は、その婚前妊娠の相手である彼とすぐ後に結婚したので、何が批判されなければならなかったのか意味不明です。彼女の夫となった人も、私の大学同級生で共産党員でした。母親が長野の共産党地方議員であり、その母を尊敬する真面目で純粋な彼女は、当時の職場の奇妙な空気に圧倒されたのか、結婚式でも再び夫婦で党への謝罪文を読み上げました。祝の席なのに新郎新婦が意味不明の謝罪文を読むのは、何とも奇妙でした。しかし来賓で来ていた職場の幹部たちは、「よく謝罪してくれた」と目を細めて喜んでいました。そんな幹部たちの様子は、列席していた私には奇妙な吐き気のするような光景に見えました。

このような共産党の「モラル違反」の話など、世間から見れば「何それ?」と笑われる程度の何か滑稽な話でしょう。しかし当時、党の責任者Mは、「世の中、芸能人などでよく見られる乱れた風紀を世間が適当に許している傾向があるが、党組織の中では絶対に許されない!」と、大真面目な顔で演説していました。職員の95%が日本共産党員なので、党組織に反論する職員などほぼ皆無だったどころか、批判された職員に冷たい視線を向ける者がほとんどでした。

今思い起こせば、すこぶる病的で異様な職場でした。規模や内容こそほんのちっぽけな話でしたが、社会主義国家で見られた粛清劇とほぼ似た環境でした。

S君の事件の前後、こうした空気がずっと継続していたのです。

ある日、組合会議で基調となる組合方針を保留した職員が、党会議で激しく追求されました。職場の党組織に嫌気がさした女性職員が、自分の居住地区への党籍移転を求めると、職場の党が嫌なら、さっさと辞職しろと脅されました。当時のゆたかの労組には党からの圧力がかかっていて、党活動に批判的な職員が労働災害で体を壊すと、党の指導のもと組合は"そんな職員"を応援しにくい空気がありました。組合のユニオンショップ協定を悪利用して、党に協力的でない職員は、組合の側から除名することにより職場を辞めさせるといった、最悪の「指導」が共産党組織から提案されたこともありました。

一般的に共産党組織は、建前上、上部の指示と違った意見を提案することができるとし、また規約にもそうした"民主主義の装い"が書いて有ります。でも何が規律違反かは上層部が決めるのです。上層部が「重大な」と見なした案件で違反した者は、組織から排除されるのが現実で、それが政治方針のような重要な話題だけでなく、党員の生活における実に瑣末な事柄でも適用されることがあるのです。共産党に詳しくない人たちには、「民主集中制」という党の組織原則に馴染みが無いでしょうが、当時の職場は、その「民主集中制」が、末端の組織と、末端のまさに瑣末な日常の問題に適用されていった、成れの果て、別世界でした。

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しかし、職場がそんな冷たい空気に染まっていた頃、私には精神的な転機が訪れていました。その頃通い始めた新しい精神科(「愛精病院」という名古屋では歴史のある精神科で、今は「あいせい紀年病院」という名前だったと思います)で、境界性人格障害に詳しい医師と出会いました。当時私が担当しており指導方法に悩んでいたある「なかま」が、まさにその境界性人格障害を抱えた子でした。私はその熟練医師に自分の仕事の悩みについて非常に肯定的に受け止めてもらい、様々なアドバイスをもらうようになりました。ちょうどそのことを境に、自分が職場で感じていた様々な疑問を、もっと前向きに考えられるようになっていきました。今思えばこの変化によって、自分が心の深層で気になっていた問題が何であったのか、より意識的に追求しようとする気持ちが持ち上がったのでした。

S君が自殺する少し前に起きていた「共産党員的な規律違反」は、いずれも暴行をはたらいた主任が勤める施設、つまりは私も勤める「ゆたか希望の家」で起こっていました。当時組織の上層部からは主任に対して、「最近いったいおまえのところはどうなっているんだ?!」といった指導責任への追求が激しくあったようでした。主任は職場の党組織の責任者として明らかに悩んでいました。その頃私は、早朝のビラまきや赤旗新聞の拡大活動など、党活動の中でいつも、主任のそばに比較的近くに居ました。主任がいつも何に悩んで、何を口走っていたかをよく聞いていました。そして、欝からしだいに脱し気持ちが前向きになり始めたある時期、S君の事件があった頃の微細な記憶が蘇ってきたのでした。

ふと思いだしたのです。ちょうどS君が失踪して皆必死で捜索していた頃、まだS君が自殺したとは、誰も、もちろん主任自身も知らなかった時、そこに私しか居ない場で主任はこう言っていました。

いや僕はね、この頃ほんとに自分が情けなくてね。僕の職場ばかりに規律問題が頻発してね、昨日も党の幹部会議で指導責任を問われてコテンパンにやられてね、ほんとにもっと気合い入れなきゃならんぞと日々自分に活をいれてるんだよ。昨日もS君が仕事に行かないもんだから、おい!もっとしっかりせなだめだぞ!と彼を叱っているうちに、つい自分をも叱りつける気持ちでS君に相当辛くあたってしまったんだよ

「昨日」とは、S君が失踪する前日のことでした。この時、S君がすでに死んでいたとは露知らず、主任はこの言葉を「施設を逃げ出したい気持ちに追い込んでしまって、僕もちょっとキツくあたりすぎた」程度の、反省の気持ちで言ったのでした。その時は当然私にも、主任に対しての同情の気持ちが沸きました。「辛くあたってしまった」...それが暴行を意味するとは夢にも思わなかった。だから記憶としては小さなものでした。しかし実際に思い出すと、奇妙にその主任の言葉が気になり始めた。主任が「辛くあたってしまった」日が、S君が失踪する前日であったこと。そしてその同じ日の深夜見たS君の体のアザ......。私の頭の中で様々な記憶がつながろうとしていました。

その頃の私は、気持ちが前向きになり出した分、職場の中でずいぶん行き過ぎた発言をしていたことがあったと思います。言動を責められても、ならば辞めてやるぞ的な気持が固まりつつあったのでしょう。そんな私にある日、職場の所長がこう言いました。「君は何か職場に言いたいことを抱えて隠してはいないか?言い難いことがあるなら私が聞くから、一度休みの日にでも私の自宅に来なさい」その時の所長の態度はどちらかと言えば親切なものと思えました。後で思えば、この時所長は、私が抱えていた思いの中身までは気づけなかったのでしょう。しかしこの後すぐに所長は、何かに気づいたのだと思います。

数日後、私は実際に所長に電話をし、自宅まで訪ねていきました。ところが自宅で話すのかと思っていたら、近くの喫茶店に連れていかれたうえで、所長の態度が180度冷淡なものに変わっていました。私が「実は今でもS君の自殺のことを気にしているのですが....」と話しだしたとたん、まだ二言三言のうちに所長が硬い表情でこう言いました。「君は神経質な性格なのかもしらんが、細かいことをいつまでも気にしすぎている」そして会話はまともに続かず、所長の方から早々とうち切ってしまったのでした。

その時の帰り道、私は初めてこう思いました。

この職場で何かが隠されている

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そこから出来事は急展開します。そうして所長と話した数日後、事件から2年もたったある秋の日、親しくしていたある看護師の職員が私に告白したいことがあると伝えてきました。気温の冷たい小雨の降る日でした。互いに相談し、わざわざ「ゆたか」の職員はまず誰も来ないだろうという場所を選んで彼女と会いました。内容は驚愕すべきものでした。

彼女は、事件のあったあの日、1階男子フロアにたまたま用事で一人居たのでした。そして廊下の奥から遠く聞こえてくる妙な音を耳にしました。それは、S君の異様な叫び声、主任の叱りつける大声、そして明らかに殴りつけるような物音でした。「あまりに怖くて、近づいてそれが何かを確かめられなかった」そう言いました。彼女もまた私と同じで、S君自殺の前日にあった断片的な記憶と事件との関連に確信を持てないまま、職場の強圧的な空気の中でなかなか言い出せないでいたのでした。

彼女の記憶と私の記憶が、この時はじめてつながったのでした。

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結局事件は裏側で、職場の一部の幹部、おそらくは当時の施設長と実際に暴行をはたらいた主任との間で秘密にされていました。他にも職場の党の一部の幹部の間では知らされ隠されていたのだと思います。

当時の西尾理事が後に亡くなった頃、私が辞めたずっと後に、福祉会の理事となったMという人物がいました。すでに話に出てきた例のMです。あの頃は「希望の家」の事務職でした。Mは、「ゆたか」に来る前は共産党中央の代々木本部で宮本顕治の秘書の一人だった人物で、あの時期すでに「ゆたか共産党」の中心でした。数人の職員への粛清や、先に述べたユニオンショップ協定の悪利用も彼のアイデアでした。あくまで私の感触ですが、主任と所長以外に、少なくともこのMは事件の裏を知っていた、いや知っていたどころか相談され隠蔽処理を指導していたのではないでしょうか。

事件の隠蔽はなぜ起きたのか? 理由は単純だったでしょう。事件が明るみにでた場合に、職場の共産党組織が外部から激しいバッシングにあったと考えられます。S君自殺の原因を掘り下げていけば、犯人の主任が浮かび上がり、彼が逮捕されれば主任が職場の党組織の問題を抱えて悩んでいた結果の犯行だったと世間に暴露される。何せ有名な施設です。マスコミに流れれば週刊誌に書かれ、世間から白い目で見られたうえで、さらに共産党中央からも激しく問題視されたでしょう。普段から共産党嫌いの保守系の週刊誌などが、批判記事をこれみよがしに書いたかもしれません。それは障害者の権利運動において、近江学園やびわこ学園とも並ぶ、輝かしい歴史を作ってきた「ゆたか福祉会」にとって、あってはならない"汚点"になり得る事件でした。

そうして事件は、職場の共産党組織の一部の幹部によって隠蔽されていました。

彼らは、一人の障害者の死の原因、ひとつの犯罪よりも、共産党組織の安泰を優先させました。

一部の党員によるいくつかの「規律違反」とその頃続いていた組織内の深刻な空気、それとS君の自殺に直接の関連はありません。ただそれらは、党組織の内部で追い詰められた主任の、破綻した精神が起こした衝動という吹き出し口を通して、皆ドミノ倒しのように繋がっていました。S君の自殺の原因を追っていけば、その向こう側に職場支部の問題が現れる。それは職場支部が共産党の組織らしくあろうとしたゆえの出来事だったのだから、さらに奥にあるのは共産党組織の体質の問題でした。

その事件が発端となり、私は日本共産党という組織に深い疑問を持つようになりました。S君の自殺と暴行事件の関連を施設の理事、就職の際私を面談してくれたあの西尾理事に全て暴露した後、職場を辞めました。

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私が事件を暴露した後、S君に暴行した主任は、一度は退職も考え職員会議で泣いて詫びたと、その後友人だった職員から聞きました。その情けない姿は、彼個人の問題へと矮小化したい組織にとって好都合だったでしょう。つい魔がさしてしまった主任個人の問題だけに視線が集中すれば、問題の根底に職員たちの眼は向かわないとでも考えたでしょう。批判がもっと根本に向かい改革の声が受け止められたなら、あの職場は後にあのような数々の労災訴訟を抱え、「紅衛兵が跋扈している」などと揶揄される奇妙な世界には向かわなかったはずでした。

しかし実際の党組織はどうしても事件と組織の関連にフタをしたかった。それどころか、さらに規律のタガを締めようとした。だから事件の後、もっと奇妙なものが出現しました。今となっては外部の党員ですら疑問と笑いですます、理解できない代物...。

共産党綱領にあやかった「職場の綱領」が作られました。

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S君の話は、ここまででほぼ終わりです。ここにはこれ以上詳しく書けませんが、私は当時の理事であり党組織の顧問役でもあった西尾晋一氏、事件の話を正面から聞いてくれた西尾氏を尊敬していました。西尾さんは障害者の親としても障害者の権利向上に長く尽力してきた方で、「ゆたか福祉会」に来る前は共産党愛知県委員会の専従でした。当時の小さな理事室で、私が西尾さんに事件を暴露した時の彼の表情や動揺ぶりを思い出すに、西尾さんは組織のトップであるにも関わらず、事件の裏側を知らされていなかったと思います。私の話を聞いて「よく話してくれた。職場を改善するために力を尽くしたい」と言った西尾氏を私は強く信じました。

この時、西尾氏を信じたことを完全に間違いであったとは思いません。ただそれは、結果的には職場の共産党を信じたことと同じでした。当時まだ党員であった私は、そこからさらに一歩踏み出すための思想的な脱皮をまだ果たしていませんでした。

当時のことを完全に客観視し始めるためには、その後、共産党を外側からより深く知り、決然とした覚悟を決める必要がありました。大学で学んだ左翼思想を一から捉え直し、わずかでも自分の頭で考え歩き始めたのは、その後、ソ連東欧の共産圏が崩壊した90年代初頭でした。

「さよなら共産党!」

私はその数年後、離党しました。

しかし離党しても、あの事件の記憶が脳裏から消えるはずもありません。むしろ離党した前後から別の角度で事件が見え始め、悩み始めました。党を客観視すれば、共産党組織に自浄力などあるはずはありません。

あの事件は、もっと社会的に知られるべきものでした。

でもそれが分かり始めた頃、すでに事件から何年も経過していました。当時すでに高齢だったS君の母親も亡くなったと聞きました。いまさら警察に言ったところで誰も幸せになどなりませんでした。

最近、山口県下関市の障害者施設「大藤園」で、通っていた知的障害者を虐待したといったニュースがありました。また数年前には、大阪の桜宮高校や、海上自衛隊など様々な組織でのいじめ・暴行事件なども報道されました。私は、そうした事件を聞くたびに、ふとあの頃のことを思い出します。そして自責の念が甦ります。

甦るたび、強烈な記憶は何度も何度も反芻され、簡単には消えず、そうして1983年のトラウマとして私の中に残ったのでした。

しかし離党しても、あの事件の記憶が脳裏から消えるはずもありません。むしろ離党した前後から別の角度で事件が見え始め、悩み始めました。あの時職場を辞めて私はまっすぐ郷里へ帰りました。しかし本当は、その前に向かうべきだったのは、愛知県警ではなかったのか?

でもそれが分かり始めた頃、すでに事件から10年が経過していました。当時すでに高齢だったS君の母親も亡くなったと聞きました。いまさら警察に言ったところで誰も幸せになどなりませんでした。

最近、山口県下関市の障害者施設「大藤園」で、通っていた知的障害者を虐待したといったニュースがありました。また数年前には、大阪の桜宮高校や、海上自衛隊など様々な組織でのいじめ・暴行事件なども報道されました。私は、そうした事件を聞くたびに、ふとあの頃のことを思い出します。そして自責の念が残ります。「ゆたか希望の家」でのS君の事件について、たとえ数年でも共産党組織の自浄力に期待した自分もまた、あの事件を隠蔽した共犯者ではなかったかと。

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S君が入水自殺した日の夜は、よく晴れた日でした。人間は、体が死んでも耳や目はわずかに機能するそうですね。見たわけでもないのに、たまに想像してしまいます。仰向けになった彼が、ゆっくり、ゆっくりと河を流れていく姿を。彼にあの日の星空が見えたのだろうかなどと....。

強烈な記憶は簡単には消えてくれません。

これが私の、1983年のトラウマです。

 

 

 

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