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2008-03-01

「社会主義」マックス・ウェーバー(著)

  • 「社会主義」 マックス・ウェーバー (著) 浜島 朗(訳)  講談社学術文庫(1980)

Mweaber1 最近書評やCD評書くのに、いちいちAmazonで売ってるかどうか確認するようになった(-_-;)。この本も最近書店で見かけなくなってきたので心配だったが、アッター!

この文庫、きっと90年代のソ連・東欧共産党の崩壊のとき売れたと思う。ある意味あのエポックメイキングな時代に、ここに書かれたウェーバーの言葉は、「予言書」となったのだから。


マックス・ウェーバー(Max Weber 1864-1920)はいわずと知れたドイツの社会学者・経済学者。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が代表作と言われている。この「社会 主義」という本は、1918年6月にオーストリア将校団向けにウィーンで行われた講演をもとにしており、まとまった正規の文献というより、政治的な啓蒙用 パンフレットという感じ。

ウェーバーはマルクス主義のことで多くは語らなかったらしい(よ〜ぽどアカが嫌いだったのかしらん)。ただ現実政治の中でのウェーバーは、市民層主導の下からの近代化路線・改良主義という立場で政治に関わっていた。このへんのウェーバーの政治的立場については、この本の最後の翻訳者 浜島 朗氏による解説に詳しい。

日本においても初期のマルクス主義受容は、社会の下部構造である経済的基盤から上部構造である政治的・文化的諸要因への影響(これを多くの社会主義文献は影響 でなく「規定」と呼ぶ)を重視した。円熟期のウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に見られるように、社会学の立場から 宗教習俗の社会的経済的要素への影響、つまり俗っぽく言えば、精神的な文化の経済への波及を重視した。後のマルクス主義研究が、単純な図式的経済決定論ではなく、政治的・文化的 諸要素の経済への反作用を考慮するようになったのは、ウェーバーの影響なしには考えにくい。このことからウェーバーは、 最初からマルクス主義唯物論への反論としての性格を持っていたと考えてもいいと思うし、現実に日本ではそういう社会主義への対立軸という意味合いで受容さ れてきた。


ウェーバーの社会主義批判の要点は、資本主義が社会主義に変わっても、社会を支える官僚機構は続くどころかよりいっそう強められるということにつきる。

ソ連型政権の官僚的体質が問題になったとき、日本の社会主義信奉者には、社会主義と官僚主義を切り離して考えようとする議論があった。彼らは社会主義へ移行した国では、資本主義の発展段階が低かったことに目を付けた。
確 かに、ソ連にしてもあるいは中国でも同じだが、現存した社会主義国はほとんどが産業の遅れた農業中心の国からいきなり革命を起こして社会主義へ移行した。 しかもそこには世界的な戦争という非日常的な事態があった。だからそのような緊急時に、遅れた農業国から強大な社会主義国家を建設するには、強力な国家権 力による統率が必要であったと。当時のソ連などの官僚主義は、そういった時代的制約からくるやむを得ない措置であったという捉え方自体が間違いでは無いと思う。

しかしだからと言って、本来の社会主義は独裁や権力集中からは無縁で あるとか、日本のような発達した資本主義国家から社会主義が生まれる場合は、全く違ったプロセスで社会主義国家の建設が進んでいくと かいった、見たことも無い「理想の社会主義」を切り離す議論に説得力がどれほどあったのか。

かつてソ連・東欧が崩壊した際に日本共産党が出した、共産圏の倒壊と自国の党内官僚主義を切り離そうとする論理は、国民目線から見ておそらく単なる選挙用のイメージ戦略に見えたに違いない。

史的唯物論の唱える弁証法的な社会発展法則から言えば、その時代その時代の社会制度(正確に言えば生産関係)は無意識的に自らを変革していく要素を内にはらむということになっている。資本主義社会では、その矛盾を止揚する労働者階級というものを自分の内側につくり出す。しかし現実の社会制度というものは、意識的レベルでは、どんな社会であろうとも自分自身の延命をはかるように制度をつくり出しコントロールしていく側面が強い。意図的に自身を破壊していく国家など無いわけで、既存の機構の抵抗といったものは、経済の変化だけでそう簡単に崩れ去るものではない。

「職業としての政治」の中でウェーバーは、『すべての国家は暴力の上に基礎づけられている』というトロツキーの言葉を引用して、「近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めた全ての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる」と書いている。

このことは、議会で多数を得ることを手段として、改良ではない全く違った社会体制に移行することが、いかに困難な課題であるかを示している。また現存する、あるいはかつて存在した社会主義国家が、例外なく暴力革命によって誕生したことの理由をも示している。さらにいったん社会主義国家が誕生すれば、その制度の現実の諸側面は、社会主義の存続を第一と考える保守的な方向に当然向かうことをも示している。国家であるかぎり官僚主義の誕生は必然性を帯びており、ソ連・東欧の崩壊と「本来の社会主義」を切り離す議論は単なる詭弁と思っていいだろう。

行政、法律をはじめとする様々な面で、現存する社会制度が今ある自分の状態を、(時には、政治的あるいは言論的を含めたいろんな意味での暴力をも駆使して)、維持していくという現実は、労働者階級が 社会制度の中心を担った社会主義国家であっても何も変わらないと考えるほうが自然だ。


今ではほとんど想像しにくいことだが(笑)、例えば日本で共産党が第一与党となった世界を想像してみてみよう(何!想像できない?ゥゥ...返す言葉はないが...)。
そ のような世界での、社会主義国家側につく行政や警察といったものは、どんな姿を国民に見せるだろう?

今ですらどんどん大きくなる政府・官公庁の機構。これを維持しつつ社会主義国家の建設に向かってまとめあげなくてはならないとした ら、より大きな官僚機構が必要になると考えるほうが普通ではないかと思う。第一、強力な官僚機構なしに、どうやってそんな複雑な国家 が維持できるだろう?

官僚の腐敗は、組織の複雑さを利用した隠蔽体質から生まれる。仮に日本が社会主義体制になったところで、役人はその日から社会主義国家の役人として生き残るのに必死になるだけのこと。彼らにとってイデオロギーは関係なく、組織が複雑で国民の目から見てわかりにくいほうが都合が良い。そして日本の政治機構はもうすでにイヤと言うほどわかりにくく、見えにくい。社会主義に移行するということは、今あるこの大きな官僚機構の上に新体制を作らねばならないということだ。

また社会主義は、理念から言えば、資本主義よりも国民の福祉をよりゆきとどいたものに整備していかなければならない。それができないなら政権を失う可能性が生じる。新自由主義のように国民生活をほったらかしにせよと言えない分、よけい政府の基盤を拡充していかなければならなくなる。充実した保証は、管理の徹底なしには実現できず、管理機構やそれを監視する機構など、放任主義よりずっと大きなしくみが必要になるだろう。そこには当然役人の利権が発生する。複雑で大きな機構ゆえに利権を得た役人は、当然政府を複雑で大きな機構のままにしようとするだろう。節税とか小さな政府をめざすとか、口で言ったところで、社会主義では全く無理だろう。

だから発達した資本主義国から社会主義に移行した場合の方が、むしろいっそう高度で複雑な官僚機構が発生するのではないか。その中からは、国民不在の官僚主義が生まれる可能性はきわめて大きい。労働者のものとなった権力を性善説的に夢見るなど非現実的ではないだろうか。


いったん権力を握った社会主義政権は、それまでの官僚機構を質的に変化させるだろう。政権維持のための何らかの思想・文化統制がそこに生まれてくる。今日崩壊した社会主義政権下では、例外なく思想統制があった。今生き残った中国はもちろん、比較的おとなしく見えるキューバやベトナムでも同じ様な現象が見られるようだ。そこに見られるものは、言い替えれば市民的レベルまで浸透した官僚主義である。

国家権力を維持するための官僚機構とは、単に行政機構だけでなく、 上は秘密警察レベルから、下は行政側に協力的な市民グループや、例えば東ドイツなどに見られた極秘で思想警察に雇われた一般市民(ある種の国家側スパ イ?)まで含めて、現体制維持に協力する全ての機構と考えてもよい。現実に秘密警察などは置かないとしても、党員やシンパによる市民的協力機構がな ければ国家が維持できず、それら市民的協力機構は自発的ボランティアではなく政府とつながらなければ、維持できない。しかしそれは、見方をずらせば何ら特殊なことではない。現在の日本においても、政権党が 自分の政策を支持してくれる諸団体に献金したりされたりするのと何ら変わりないことである。

政治は権謀術数の世界なので、特定の政党の綱領に書かれた理論や理想では計ることのできない、きわめて現実的なレベルでことが運ばれる思う。社会主義は一度誕生すれば自らを維持しようと必死になる。民衆を抑圧することなど政策のうちである。社会主義に思想統制が必然ではないというのなら、なぜ歴史的には例外なく思想統制が出現したのだろうか。例えば日本の共産党などは、この問題に真剣に答えていないと思うがどうだろうか。


ウェーバーは人間の歴史を「合理化」の発展過程であると捉える。「合理化」の発展という切口だけで、全ての歴史事象が語れるかと言えば、疑問は多々 残るだろう。しかし、世界の多くの社会主義圏が崩壊し、その国家官僚主義の内実が暴かれた今日、ウェーバーの「社会主義論」は予見性を持っていたことが分かる。この本は、ウェーバーの著書の中ではマイナーで、それほどの面白みは無いけれど、社会主義 においても官僚機構がより徹底されることを確実視し、それがけっしてバラ色の未来ではないことを20世紀初頭に見抜いていたウェーバーの見識は、非常に 卓越した鋭いものだと思う。

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