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2008-11-02

上田耕一郎氏が死去

上田耕一郎が亡くなったらしい。

上田耕一郎・元共産党副委員長が死去 (産経:2008.10.30)

元日本共産党副委員長の上田耕一郎(うえだ・こういちろう)氏が30日午前、死亡した。81歳。神奈川県出身。

言うまでもなく上田耕一郎は不破哲三元議長の実兄。 

東大の日本共産党細胞1期生で、党機関紙「しんぶん赤旗」編集長や共産党宣伝局長、政策委員長などを歴任。昭和48年に 「民主連合政府綱領」を提案し、独自路線を主張する日本共産党中央幹部の中では他党との関係を模索する立場をとっていた。49年の参院選に当選し4期連続 で参院議員を務め、平成10年の参院選に出馬せず議員を引退。その後も、しばらく党副委員長を続けた。

上田氏と言えば、もう古い本だが「先進国革命の理論」を党員時代に読んだ記憶がある。出版は1973年と古いが、私が大学入学直前(1978年)に あった『田口・不破論争』のからみで手に入れた。あくまで共産党の路線上に則った著作なので、いまさら内容を取り上げても仕方ないが、「民主連合政府」に ついての党の考え方を読む上では、下手に省略的な党のパンフレットを読むより、上田氏のこの本で十分であったと思う。

上田兄弟はあまり似ていないと昔から思っている。かなり昔のことだが、大阪のある大ホールでの共産党講演会に来た上耕を聞きにいった憶えがある。本来は理論派でもあるが、そういう面は弟に預けたかのように、熱弁タイプであった。スポットライトに浮かび上がった上耕は、政治や米軍への怒りをストレート に力強く訴えていた。クセのある変に回りくどい喋りかたの弟に比して、直接聞く者の胸に届く語り口。共産党の幹部には、いや地方の幹部ですら、例の手ぶりをまじえた不破似の喋りかたの人がなぜか多い。離党した筆坂さんですら、TVで見ているとそのクセがまだ抜け切っていないように感じる。あの時の上耕の熱弁を思い出すと、ああいう語りかたの人間がもっと居た方が、共産党の真剣さが伝わるだろうにと思うが、上耕的人物は党内では小数派だったのだろう か。

有田芳生氏のサイトには、少し前まで、自身と共産党との関わりを綴った一連の文章があった。そこに『上田耕一郎という「私の大学」』などのいくつかのエッ セイがあった。有田氏が大学当時から上田氏の著作を読み手紙を出していたり、「人民大学」(共産党主催の公開講座)で直接会話したことなどが出合いであったらしい。当時副委員長であった上田氏と、後に『文化評論』編集者となった有田氏とは、大先輩と後輩となったそうだ。あのエッセイを読んだ時の上田耕一郎の印象は、人情に厚く、小さな質問にも丁寧に応えてくれる温かい人柄であると感じた。相手が宮本顕治であろうと自分が思っていることは臆せず言ってのけ る剛胆さも魅力であった。そう言えば上田氏には、幹部党員には珍しく、一般の出版社から出した著作がある(「国会議員」 (平凡社新書))。このへんも、どこか他の幹部とは少し違ったものを感じる。


だが個人の人柄に魅力があっても、それで話が終れないのが共産党である。上田耕一郎のような人であっても、あの共産党という組織の中で、はたしてどこまで自己を押し出していけたのだろうか。そういう疑問もいくつか浮かぶ。私には、組織の中で生きぬいたことで、その人の魅力も半減してしまった、あるいは自ら消してしまった、果てには、ただの組織人になってしまった、そういう話が共産党には数々あるように思う。

1974年から24年間、上田氏は参院議員として常に第一線だった。田中角栄元首相の金脈問題やロッキード事件では中曽根康弘元首相、リクルート事件では 宮沢喜一元蔵相を厳しく追及した。中曽根から「上田さんは楽しそうに質問する」と皮肉を言われたといったエピソードも残っている。しかし私の世代、党員の中から見た印象で言うと、どちらかと言えば上田耕一郎は、不破哲三に比べて兄弟とは思えぬ目立たぬ存在であった。共産党がまだ元気であった頃、選挙などでは大きな力を発揮する、縁の下の力持ちであった。きっと党の中では、工場長のような人であったのだろう。

しかし、なぜ目立たなかったのか?党内での上田氏の顔は、複雑だったようだ。彼は「新日和見主義」批判の中心論文を書いたと言われる。有田氏の「日本共産党への手紙』出版粛清事件においても、宮本顕治からの批判発生後に出版前と態度を豹変させている(これも有田氏のHPに書いてあった)。では常に党の社会主義理論に忠実であったかというと、一定の時期明らかにブレがある。そのあたりを、やはりあの宮地健一氏のHPが今回詳しく書いてくれている。

工場長は同時に、工場経営者に忠実な思想検事でもあったわけだ。個人的に憶えていることと言えば、たしかこれもやはり有田氏の一連の文章の中にあったはず。あの古在由重さんが亡くなられた時、上耕は、こっそりと葬儀翌日に古在氏宅を訪れたんだとか。党を除籍された学者の葬儀だから党組織の代表としては出れなくて、でも尊敬する気持ちがあったから遠慮がちに訪れた、って党外の人には理解できない話だよね。

剛胆な人柄で人情にも厚かった上田氏ですら、世話になった人の葬儀に、しかも翌日に、隠れて行かざる得なかった、そんな共産党とはいったいどんな党であろうか? それは上田氏にとって、それで納得のいく行為だったのだろうか? 私には亡くなられた古在氏自身が、原水禁大会準備委員会の運営で起きた友人の罷免問題をめぐって体をはって党と対立したことに比べると、どうしても、党に残ろうとする人とそうでない人との生き方の違いを感じざるえない。その違いは当然、上田氏の場合も、党の外への顔と内への顔の違いとなってあらわれたと思う。

結局上田耕一郎氏の本音は何だったのか? 死してまた、あらためてわからない。明らかにすこぶる能力の高い人物であったのだけれど、党内で組織を支えてきたからには、その幹部自身が、どうしても様々に共産党の矛盾を体現させてしまう。

しかしまあいいだろう。もう亡くなられたのだから。また昭和の共産党が一つ消えた。共産党にはだんだん理論家も実践家も居なくなる。特に上田耕一郎のような両方兼ね備えていた人はなおさらだ。

僕は、党員か非党員かで、人の死を区別などしたくはない。

ご冥福をお祈りする。

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コメント

有田芳生氏の以前の記事について、上のエントリのように書いたが、氏が『上田耕一郎という「私の大学」』を再掲しておられることを今日知った。詳しくは『酔醒漫録』の以下の記事からたどれる。

『巨星逝くーー上田耕一郎の想い出』
http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2008/10/post_b4f9.html

追悼記事も有田氏の上田氏への思いが伝わる文章だった。

ご紹介ありがとうございます。
いつかもっと書こうと思っております。
筑紫哲也さんが亡くなり、TBSは追悼番組を用意しています(11月12日放映)。当然です。でも上田さんが亡くなっても訃報だけ。宮本さんのときも同じ対応。
おかしいと思います。どうしてこんなに冷淡なのでしょうか。残念です。社会の目は見ているんですけどね。だから……と。

 有田芳生氏は、「上田耕一郎という(私の大学)」で、上田氏への不信を語っている。また、宮地健一氏はHPで、日本共産党における党内弾圧・粛清の「共犯者」だと糾弾している。これらは事実だとおもう。したがって、上田氏への批判は当然のことだ。
 宮地氏は上田氏の言動が同党の体質によるものだとして、個人の人間性にとどまらず共産党そのものの存在をするどく追及している。だが、有田氏の「(私の大学)」にはこのような傾向がみられない。自分がじかにかかわりをもった人物の言葉や行動を批判するのはあたりまえだ。不当な党内処分の被害者としては、とくにその思いがつよいだろう。
 だが、有田氏の処分を指示し、それを実行した連中。また、傍観していたヤカラがたくさんいたはずだ。それを上田氏だけの不信にとどめていいのだろうか。宮地氏はみずからも加害者であったと告白している。この宮地氏の態度は立派。多くの党員そして元党員がみずからの加害責任に口をつぐんでいる。上田氏や宮地氏にかぎらず、だれもが加害者になり、被害者になる。だから組織体質そのものが問題なのだ。
 戦前の同党は官憲の弾圧からどう逃げるかが最重要であった。戦後しばらくは党内闘争をくりかえした。共通するのは食うことをふくめて、いかに生き延びるかであった。
 ミヤケンは戦前、戦後と生き延びた。ということは手段を選ばなかったはずだ。党内闘争では「卑劣な方法」をためらわなかったとおもう。だからこそ長く生き残ることができた。このようなミヤケンの支配下では上田氏も「使い勝手のいい男」として存在するしかなかったろう。
 上田氏を弁護すれば、ミヤケンのトラウマがぬけ、党が変わることを期待していたとおもう。しかし、そのような時期はついにこなかった。
 ほかの選択肢は党を離れることしかない。「上田新党」もあったかもしれない。だが、ミヤケンが総力をあげて「ぶっつぶし」にかかることは明らか。それに消耗することを嫌ったかもしれない。
 上田氏が有田氏に述べた「だからやめろと言っただろう」という言葉は、陰惨な党内闘争の歴史をしらない不肖の弟子にたいするハナムケであったろう。

党員だった頃、労働組合の大会で私の友人が、組合の方針に対して保留に投票したことがありました。それが、非党員の組合員数名がやはり保留に投票したことに強く影響したとして、翌日の支部会議でその友人は激しく批判されました。党員が9割という特殊な職場でした。その支部会議で、一人ひとりの党員が、君はどう思うかと問われ、...というか激しく問いつめられ、私も自身の見解を明確に持てないまま、友人への支部側の批判を支持したことがあります。分からないことは分からないとなぜ言えないのか、「党の中では誰もが加害者になりえる」という言葉に、いろんな苦い記憶を思い出しました。変わらない党ではありますが、だからこそ変えろと言い続けたい。今、党に疑問を抱いている党員や、私のような元党員の多くは、自戒もこめたいろんな気持ちを抱いていると思います。天国に行った上耕さんも、おそらくそういう気持ちだと思いたいです。

 戦後の日本共産党をイコール故・宮本顕治氏とすれば、キーワードは党内闘争となる。いちいち並べないが、「政敵」とみなした人たちとの闘いの連続であった。あげくのはてには、「新日和見主義」という幻影まででっちあげて、民主青年同盟を壊滅させ党衰退の一因までつくってしまった。
 不破哲三氏は、「もっともつらかったのは50年分裂の時だった」という意味のことを述べている。組織と仲間が信頼できない。人として一番過酷なことだ。
 この時期、あるところでは二つの地区指導部ができて、党員の獲得あるいは処分にシノギを削ったという。細胞(支部)や一般の党員は、何を信じ何が指針なのか、さっぱりわからない。へたにうごけば「反党分子」として敵視される。
 当時の『前衛』投稿欄をみると、罵詈雑言や中傷を簡単にみつけることができる。
このようななかで恨みと不信を残して党を去っていった人たちがたくさんいたとおもう。
 だが、ミヤケンはもとより不破氏そして故・上田耕一郎氏などはこのような状況を生き延びた。並みの神経ではない。
 宮地健一氏のHPによれば、不破氏がミヤケンに議長退任の引導をわたしたという。さらに、ミヤケン派茶坊主にも「静かにお引き取り」を願った。宮地氏はこれを不破氏による「クーデター」と称している。つまりこれも党内闘争なのだ。
 何かのおりに、ミヤケンが茶坊主に「あいつはダメだな~」とつぶやく。すると、本部要員の人事が本人はもちろん、正規の手続きもないままに突然発表される。当然、左遷だ。また、ミヤケンが「いまはこの問題が大事だ」という。こんどは新日本出版の出版計画が急にかえられて、「この問題」の本がでる。これらの例は日常のことであったと聞く。
 つまり、党内闘争をキーにして共産党をみると合点のいく点が多い。その渦中にあって「不破哲三を批判する左翼・元共産党員でも、上耕批判をするのはほとんどいない」(宮地氏)という人柄を亡くなるまで保ちえたのはものすごいことなのだ。

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