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2009-01-11

派遣村の賛否両論(1)

年末年始TVニュースをにぎわした「年越し派遣村」が5日午前で閉村したそうだ。年末は何かと忙しく、ネットの記事もあまり読まなかったが、派遣村については本音で喋った一部知識人や政治家を挟んで、左派系ブログとネトウヨおよび2CHなどの間でバトル?があったのを(いまごろw)知った。

「おれたちは苦労してきたんだ。今の若いヤツは甘えてやがる」的おやじ発言しかできなかった小倉某や みのもんたのことは、基本的に無視したい。坂本哲志総務政務官の「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのかな?」発言もくだらない。その 坂本政務官の解任まで求めた民主党の鳩山由紀夫幹事長も同列。正直そんなやりとりに議会の時間を使ってる場合かよという意味で。

年末のTVでは「朝まで生テレビ大晦日スペシャル」をやっていた。チャンネルを変えるついでにちょっと見ていたが、辻本清美が派遣切りは許せないとしきりに発言していたので、あほらしくて見なかった。かつて派遣法改悪に反対したのは共産党だけだったはず。社民党はもちろん、民主党も個人で反対していた議員はいたが、反対派は少数だった。

一部に見られる「派遣村の偽善」という言葉は言い過ぎだろう。しかし「偽善」の意味が、「派遣村」そのものよりも、背後で動いていた国会や政党や既成労組の中を指しているなら、2CHの意見ですらあながち批判はしにくい。

異論はあるだろうが、坂本政務官あたりがダメなのは、タイミングや政局が読めてないからだけではない。「派遣村」は偽善ではない。しかし実行委員会の本来 の意図を歪める人達が何%か居たのは事実のようだ。だから坂本政務官の失言を誘った原因が「派遣村」をめぐる動きの中にあったのではないか。坂本氏は、自 身が感じた偽善が全体の中に巣食う比率と表現の仕方を誤った。そういう現実把握ができなかったという意味で、政治家失格である。

大衆側の利益をわかりやすく訴えれば支持されるが、そうでない場合は当然批判される。短期的なバラマキ型の経済政策は一般受けがよく、長期的な展望に立った政策はしばしば弱者の直接救済をしないので大衆受けしない。だからまともな経済学者はたいてい嫌われるが、左翼的な政治家はたいてい前者に走る。しかし根本的な経済政策を考える能力のある識者はたいてい後者に属している。

今の時代に、大衆の直接的な利益をバラマキ政策でやろうとする政治をポピュリズムと呼ぶなら、それは衆愚政治という意味だ。今回の「派遣村」についてのネット上の議論を見ていると、ポピュリズムに踊らされかねない大衆側があまり衆愚ではなく、「派遣村」に集まった政治家や大手組合幹部のほうが「愚」であったように見える。人気取りに走った彼らにとって「派遣村」の中はそこが日本であったかもしれないが、ネットの意見の多くは、根本にある全国的な非正規労働者切りと日比谷公園の内側を冷静に区別していた。大衆運動が利用されていくという現象は今まで何度も目にしてきたが、ネットの時代になってかならずしも大衆側がそうかんたんに利用されないものになってきているのかもしれない。これは、今年の選挙を考えるうえで意味のあることだろう。


「派遣村」に集まった人達の全てが、「まじめに働こうとしている人か疑問に思えるような人達」であったはずはない。それはボランティアに実際に行った人達の声を読んでいると分かる。年末から職を失った人達の状況は悲惨で、「浮浪者になるしかないとでも言うのか!」の声は深刻。だから、反貧困ネットワーク代表の宇都宮健児氏や、もやい事務局長湯浅誠氏が「派遣村」を始めた意図は十分理解しなければならないし、緊急に必要なことだったと思う。

この緊急な必要性から始まった「派遣村」だったにも関わらず、そこに別の意味を持ち込む者がいた。そこを何人かの人達は批判した。ネット上で叩かれた意見で、政治家以外の代表的なものは、池田信夫 blog『「派遣村」の偽善』とそこからたどれる、木村剛氏の『世間知らずたちが世の中を悪くする!』といったところが有名か。それと田中康夫氏のラジオでの発言。個人的な意見だが、その人達の「派遣村への疑問」を叩いた左派系ブログ(と呼んでいいかどうか?)の見方は感情的すぎ、むしろ池田氏や木村氏の意見のほうが冷静で論理的であると感じた。


始めて「派遣村」のニュースを聞いた時は、私も木村氏と同様の疑問を感じた。そもそもなぜ日比谷公園なのか。もし自分が職も住居も失ったらまずどうするだろう。とりあえず職を捜す。住処を確保する。ダメなら実 家に帰る。その旅費もないなら一時的に浮浪者になるほかない。悲惨だ。寒いし死ぬかもしれぬ。しかしである。ならば、東京に行ってど真中に集まろうとは誰も考えないはず。東京に行く金があるなら実家や友人の家に行く。だからあそこに集まったのは、東京近郊の一部の失業者であると思うのは普通。神奈川あたりから歩いて来たという驚異的な若者もいたが、そういう人でも近郊県に限られるだろう。彼らは全国に広がる首切りにあった非正規雇用の代表者ではなかったはず。実際ネットでは、 完全失業者は250万人もいるのに、なぜ日比谷公園に集まった500人だけを特別扱いするのかという声もあった。

しかしニュースを見ているうちにだんだん考えが変わっていった。

なぜ「派遣村」が日比谷公園だったのかという点に政治性が無かったとは思えない。しかしそのことに既成の左翼的なイデオロギーのようなものを読み込 む必要は本来ないと思う。そこに集まったのは、経済力のない弱者達だった。彼らは失業者の代表ではなくとも、そんな方法でしか政治的アピールができない理由が あったはずだ。厚生労働省が発表したところでは、08年10月から09年3月までの期間で、雇い止め、契約解除などによる解雇で職を失う非正規社員の数は 8万5千人になるという。集まった人達にどれほどの政治的自覚があったかはともかく、中心となった湯浅氏らには単に「派遣村」の500人のためだけでなく、職と住居 を失った数万の非正規労働者たちからのアピールの場という意識があったのではないだろうか。だからこその日比谷公園であったと思いたい。

ただしこの手の政治的アピールには難しい課題が伴う。少し前のフランスでは、2005年秋の都市郊外の 若者による反乱、2006年春の学生・若者を中心とする反CPE反乱など、「派遣村」などよりずっと過激な政治的行動があった。しかしその後、フランスの 雇用改革が進んだとは言えないそうだ。なぜだろう。


正直に言えば、「派遣村」に限らず、このところの「派遣労働者切り」についてのマスコミの報道にはどこかしら違和感を覚えた。まず一言に「派遣」とい うが、派遣会社から来ている非正規労働者に関しては、企業は派遣会社との契約を打ち切ったのであって、彼らは直接トヨタやキャノンに雇われていたわけではないだろう。派 遣に職を提供する義務があるのは派遣会社である。不況で直接雇われていた期間労働者も首を切られたが、企業が直接に雇用の責任を問われるそういう労働者の問題と、派遣の問題がごっちゃに報道されているのは正確ではないと思う。派遣の場合複数の派遣会社に登録して職の斡旋をして もらっている人もいる。彼らの中には別の派遣先をすでに紹介してもらっている人達もいる。そういう人達の例は報道せず、職も住居も失う悲惨な例が全てであるかのようにマスコミは報道している。それに企業側も解雇の1か月前には通告してるので法的問題はない。

しかし法的問題はないから、その人達の生活が楽になるはずもない。ネットでの批判を読んでいると、そうした手続き上の問題と実際の援助すべき問題が同列で並べられ、お互い水掛け論になっていた。手続き上の問題だけで言えば、厚生労働省の講堂を年明けで仕事で使うから宿泊者は立ち退いてくれというのは当然のことだ。では立ち退いた後はどうするかが問題のはずで、立ち退かせたことで厚労省や政府を批判する人が居たら、政治的利用だと言われてもしかたがない。

しかしネットで見られた「自分で派遣という仕事を選んだのだから自業自得だ」型の自己責任論に組みする気にはなれない。働く人達はそもそも今の自分を振り返ってみよう。今の自分の仕事は、本当に自分で選んだものだろうか? 夢を持ってプロのスポーツ選手になったようなごく一にぎりの人はともかく、ほとんどの人にとって、自分で選ぶことと、それを選ぶしかなかった状況の区別はあいまいである。我々は、働くことにかぎらず、社会が用意したいくつかの器を見て、しかもその器が数多く用意されていたとしても、その時の自分の限界や情報の限界のなかで、ほんの数種の選択肢の中から選んでいかざるえない。それを時代性や社会の環境から見た時、社会的存在としての人間が見え、自分を中心とする側から見れば自分で選んだ自己形成に見える。だから自己責任と社会的責任は常に表裏一体である。非正規雇用の問題に限らず、犯罪の問題ですらも...。

年末に首を切られた若者は、たしかにその仕事を自分で選んだだろう。しかし彼らにとってきっとそれは、わずかな選択肢の中でもいくぶんかマシなものだったのだ。そのときの彼らの限られた境遇まで、彼らの自己責任にはできないだろう。


話を「派遣村」に戻そう。「派遣村」そのものは偽善ではない。そこに集まった失業者たちは日本の失業者のほんの一握りであったかもしれないが、地方に点在する多くの失業者と同質の人々だった。そして「派遣村」の政治的パフォーマンス性についても積極的意味と捉えたい。そこまでは今同意できる。

ではでは、そこに支援に駆けつけた政党関係者や組合関係者が、単なる政治的パフォーマンスではなく本当の支援に取り組もうとしていたのか。それはこれから問われるはずだが、現場を取材したいろんな報道を見ていると、「派遣村」の最中から何かしら異質な要素が現れていたと思える。浮浪者が混じっていたとかいう問題だけではない。浮浪者なら炊出しにあずかろうとするのも当然。ついでの人助けと思えば別にいいではないか。しかしそれとは違って、「派遣村」にはしだいに本来そこを必要とした人達と違った人間たちが集まってきた...というのは、次のような写真を見て考えさせられた。

Hakenmura1 Hakenmura2
Hakenmura3 Hakenmura4

「安保破棄」?「憲法9条」?いったい何の関係があるのだろうか?アメリカの言いなりになって膨大な軍事費を使っているから、雇用問題の解決に税金が使われないとでも?彼らの頭の中では、そうつながっているのかもしれない。でもこんなことをしていたら、池田氏や木村氏や田中康夫氏の批判が生まれてもしかたがない。

このデモ行進の写真を見て思った。自分がもし今も共産党員であれば、このような「派遣村」の流れで行われた集会に、何の疑問もなく参加して「大企業は派遣切りをするな〜!」なんて叫んでいたんだろう。しかしこれを組織した某政党や某労組の人達を、ネットでの批判者のように「プロ市民」と呼ぶかどうかはともかく、彼らがこうして運動を煽っておいて、実際の国会では実現するあてもない政策に立って政府批判をしたり、非正規雇用のことを考えているポーズを取りながら、自分達の腹は傷めないような姿勢を取っていたらどうだろう。彼らは失業者の味方のような言葉を使いながら、むしろ雇用政策の足を引っ張っていないだろうか?

この写真のうち、左下にある黄色い旗「国公労連」の文字をよく覚えておこう。国公労連は、全労連傘下の最有力組合の一つである。「派遣村」には民主党もエールを送り、これに協力していたのだから、後で出てくる連合の関係者もボランティアとなって多く居た。実際「派遣村」の開村式では、連合・全労連・全労協の3団体からそれぞれ挨拶があり、3団体が一堂に会してこのような支援を行うということは歴史的な快挙とも言われた。「派遣村」はあたかも大手組合組織の集合所となったのだろうか。では彼ら組合や政党に集合した公務員や正社員たちは、これから何をしてくれるのだろう。

(2)へつづく

 

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