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2009-04-25

『蟹工船』...浅川監督なんていないんじゃないか?

いまさら「蟹工船ブーム」と言っても、もうずいぶん過ぎ去った感がある。私はと言えば、もちろん若い頃に読んでいる。元共産党員だもの、本棚さがせば多喜二の数冊ぐらいあるさ(ただし中野重治もあるわけだがw)。嫁の本棚には宮本百合子も並んでいる(嫁はかつて百合子本にはまったが、今はつまらないと思うらしい)。

昨年は、まあブームだという話だったし、いまさら感満杯だったが、去年の秋頃本棚の多喜二のホコリを払って読んでみた。そしていまごろこんな文章を書いている。

多喜二没後75周年にあたる昨年は、新潮文庫『蟹工船・党生活者』が異例の大ヒット。40万部も売れて、今も多少は余韻が続いているという。この売れ方は例年の100倍だったというからたしかにすごい。

若い派遣労働者たちがこの古い小説に自分の境遇を重ねあわせ、共感したという話が、雑誌やTVでよく言われた。赤旗はもちろん一部の地方新聞は、多喜二の生き方に感動して共産党入党者が増えたという記事を載せた。しかしこの話はどこまで本当なのだろうか。

512rwabknxl_sl500_aa240_ 私が持っているのは新潮文庫ではなくて岩波文庫のほう。解説はかの蔵原惟人が書いている。蔵原惟人と言えば昔、新日本や大月書店から出ていたプロレタリア文学・芸術論の入門書でお世話になったが、そんな堅い話はやめておこう。ただ、よく知られたことだが、もう著作権の切れた小説は「あおぞら文庫」で探せば無料で読める可能性がある。「あおぞら文庫」の年季もそれなりなので、PCはもちろん携帯もOKだし、専用の端末まである。ここに「蟹工船」があるから、読みたいがお金の無い人はわざわざ買う必要は無い。だから携帯は持っているがお金の無い非正規労働者が、文庫ぐらい買えるにしても、それが彼らの中でブームになるのかという疑問はある。

「蟹工船」で共産党入党者が増加といわれてもピンと来なかった。入党者が増えるんなら、同じ岩波文庫版に収められている「一九ニ八・三・一五」のほうが、ずっとストレートだ。なんたって最後が「日本共産党 万歳!」で終わっているぐらいだから(ちなみに「あおぞら文庫」版の「一九二八年三月十五日」は、最後のこの部分の"日本共産党"や他の過激なw表現が×で置き換えられているのが謎。政治的配慮でしょうか? でも小説だろ!作者に失礼では??)。

住井すゑさんも言っていたとおり、多喜二の文章は巧い。印象的な書きだしといい、場面の切り替わりが映画のモンタージュ技法のようで、頭の中に情景がパッと広がる。感情的にうまく煽るので、読んでいてぐいぐい引き込まれる。

しかしブームが起これば批判もある。「蟹工船」という小説の疑問点は、もう言い尽くされている。例の行方不明になった川崎船が帰って来る場面だ。もういろんな人が書いているので重複必至だが、今の時代に読めば誰しも疑問に思う場面だろう。

せっかく盛り上がっていたのに、その川崎船の話のところで急に気分がしらけるのである。たまたま辿り着いた土地でロシア人たちと出会う? しかもそこに片言の日本語を話す中国人が一人混じっていて通訳してくれる。その内容が「プロレタリア一番偉い...」とかいった話。誰がどう読んでも作為的ではないか。たまたまロシア語と日本語のわかる中国人が居るのも不自然なら、いくらソ連の人間だからって、港の漁師がたまたま捕まえた日本人に、いきなり革命と社会主義の基本なんぞ話すものか? その行方不明船がまた偶然無事に帰って来て、心配していた漁師たちに聞きかじった革命の話しをする。いくらなんでもあり得ない状況設定だ。登場する漁師たちの中には、「学生上がり」と呼ばれるちょっとインテリの若者がいて、ロシア人たちから聞いた話を、学の無いプロ漁師や出稼ぎ漁の小作農に解釈してくれる。多喜二がわざわざ「学生上がり」という異質なものを置いたのは、閉鎖的なカニ漁船の中に、むりやりプロレタリア革命の話を結びつけるための役者が必要だったからではないのか。

それに物語のラストが奇妙に説明的で、しり切れトンボなのも、読み手にフラストレーションを残す。だから映画化(また新しくされるらしい)する場合は、このラストシーンを、小説の何倍にも膨らませないと絵にならない。

ここで多喜二が実はエリート出身であったから、文学者の生活実感が作品に偏りを及ぼすとかいう話は横に置いておくが、やっぱり現代の社会に働く我々にとってのなにがしかのリアリティーが「蟹工船」には欠如しているのではないかと思う。感情に訴えるものがあってグイグイ引き込まれる良い小説なのだが、どこかに作為性を感じるのである。

社会の底辺をよく見れば「蟹工船」のような搾取は今もある。もちろんその搾取が表面に現れる姿はかなり違うけれど。

しかし「蟹工船」は閉じた世界だ。我々はもっと開かれた世界で搾取されている。搾取する側が、会社だ経営者だといった認識ではすまないし、企業とその背後の統治機関(官僚機構)とのつながりも、戦前の産軍共同が露骨に支配していた構図とはかなり違う。「蟹工船」の世界は、戦前の日本がその頃辿り着いた、イギリスで言えば初期の産業資本主義の姿。あえて似たものを探せば、あゝ野麦峠、「女工哀史」の世界だろう。実際「女工哀史」は1925年(大正14年)、「蟹工船」は1929年(昭和4年)とほぼ同時期。時代的に初期産業資本主義は過ぎたゾと言うなら、せいぜい重化学工業黎明期の資本主義下の物語である。

山本薩夫監督の映画「あゝ野麦峠」(1979年)の時は、今の「蟹工船」ブームほどの盛り上がりは無かった。あの時は一部の左翼での流行りで、共産党員どうしで見に行ったりした。だが、食べるものも無く娘を売り飛ばさねば生きていけない戦前の極貧な飛騨農家を、マクドナルドが街中に普通にできた若者が引きつけて考えるはずも無かった。どこから見ても、マニュファクチュア(工場制手工業)から工場制機械工業への過渡期のような製糸工場の生産形態を、高度成長期の人達が身近に感じるリアリティは無かった。皆昔は悲惨だったのねーで終わったのである。

では今になってなぜそこまで、「女工哀史」の延長のような「蟹工船」が流行ったかと言えば、確かに非正規労働者の悲惨な現状に求められるだろう。しかし資本家VS労働者という構図が、もう古くささを帯びている点は認識する必要がある。労働者は確かに今も搾取されているが、「誰に」かは、「蟹工船」ほど単純明確ではないと思うのだ。

浅川監督のような、こいつを殺せばかなり事態が変わるといった対象があるだろうか? 企業で働いていて、わたし自身もリストラの手伝いのようなことをさせられたことがある。そこで手伝わされたという認識を持っているか、ごまかしているかは人によって違うだろうが、そういう経験を持つ人は多いだろう。職場の仲間が辞めさせられていく、その時何もできなければおまえはスルーしたのだと言われれば、ほとんどの労働者はリストラを黙認していることになる。では私もまた浅川監督のような存在なのだろうか?

しかし「蟹工船」のラストでは、浅川監督も雑夫長も、漁期中にストライキのような不祥事を起こさせた責任をとって解雇されるのである。「蟹工船」に現代につながるリアリティーがあるなら、むしろこの部分ではないだろうか。実際の話、大企業では、経営不振やプロジェクトの失敗で、給料の安い末端社員よりも高給な幹部を首にするケースが現実にある(IBMなど典型的と聞く)。

税金や年金のことなどで不満があって、役所に文句を言っても、末端の公務員は自分達ではどうすることもできない、自分達末端も被害者だといった対応になることしばしば。それは企業であっても同様である。搾取の仕組みを実行する末端は、商品を売ったり手軽な非正規労働を紹介するある種のプロジェクトやキャンペーンの実行者。彼らはたいてい笑顔で接してくる。消費者・労働者としての我々は被害者であっても、そのプロジェクトやキャンペーンの実行者として働く時は加害者であるかもしれない。ではいったい誰が我々から搾取しているのか。そこの見えにくさこそが現代社会の本質で、分からないからこそ「システムという見えない敵」ととりあえず呼ぶしかないのではないか。誰かをブチ殺せば道が開けるとか、マルクス主義を学んで皆で一致団結して戦えば道は開けるとか、もうそんな時代では無いだろう。

今まで読んだ小説という範囲であえて探せば、「蟹工船」よりカフカの「城」のほうが、現代のこの分かり難さにぴったりきたりして...。訴えたくて官僚の建物 をどこまで登っても、相手が見えず、誰もが自分は関係ないと言う。世の中のこの見え難さの後ろにあるものを暴露しなければ、なかなか事が始まらない。

「蟹工船」から派生して"左翼ってけっこういいかも..."と来た。で次に「資本論」がブームにとか。過去の遺産から学ぶという意味で、それがムダとはけっして思わないが、そんな時間があるなら、自分の能力を高めて労働者としての価値をアップしないと生きていけないという切羽詰まった現実。しかし全ての人が高い能力を持てるハズが無い。能力をアップできなかった人達を、できなかったなりにフォローする社会のことも考えなければ、社会全体が沈んでしまうだろう。その歪みは、回りまわって正社員にも及んでくる。今人々に必要な団結があるとすれば、シュプレヒコールをあげてストライキをするそれではなく、階級的切断を超えた互いの利害の共通項を見出す認識ではないか。既得権益層が社会のシステムの固定と持続を望んでいる時代には、資本家を糾弾する組織が既得権益層に居たりするのである。

正社員の立場に安心せずに、そういう認識を深めたいのだけれど、「蟹工船」はその点ではあまり参考にならない。

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コメント

蔵原惟人の名を聞くと一言いいたくなりますね。
 戦前は宮顕の兄貴分で、尚かつ戦後は宮顕の子分で、増山さん言う人の書いた戦後左翼人士群像で、夜店の植木市で増山さんから逃げまくる気の弱い人と書かれています。
 こんな2.3流の文芸評論家に評論されたら多喜二も可哀想ですね。
 結構きつい言い方ですが、古在由重先生という、哲学者が蔵原と75年に論争しているんですが、話しが全然かみ合わないというか、蔵原がかみ合わそうとしないんです。
 その辺に晩年の孤独な死の萌芽有ったみたいですね。
でも、古在先生はどんなに政治的に辛い時でも、酔っぱらいの歴史学者家永先生の孤独な戦いを支援してくれました。
 その辺が蔵原宮顕みたいな2.3流の人間との違いですね。

詳しくは知らないのですが、蔵原惟人の芸術論は多少読んだことあります。思い出そうとしても印象が薄いのは、党の路線に忠実で面白く無かったからでしょう。
ベンヤミンでも読んだほうが、よっぽど有意義かとw

>今人々に必要な団結があるとすれば、シュプレヒコールをあげてストライキをするそれではなく、階級的切断を超えた互いの利害の共通項を見出す認識ではないか。

自分がテレビや新聞で見聞きするいわゆる「格差」問題で感じていた違和感を解く一文でした。共通項。今は、その共通項をどう見つけるのかはまだ発想の端緒についたばかりで明確な指針は得られていません。見つけられると良いです。

共通項を見つけようとしてなかなかできないのは私も同じです。なんせ相手のいることですから。向こうが共通項を見つけようとしてくれないこともあるしな〜。「共同戦線」等の言葉を使う人は、たいてい主張が強いので、互いの差ばかりに目がいくようですし....。

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