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2009-05-03

『終わりなき日常を生きろ』宮台真司(著)-(2)

救いの方法に依存する「行為系宗教」よりも、それを手段としてより高次なこころのあり方に至ることを重視する「体験系宗教」のほうが優れているなどということは、けっして無いと著者は言う。

「幸福の科学」のような「行為系宗教」に比べて、オウムは「体験系宗教」に類するから認めるべきだとの論争が、オウムの犯行より前の時期に宗教学者の間にあった。そういう宗教の序列化は「明治以来の近代知識人の自我不安を映し出すだけの、アホらしいもの」と著者は言い切る。「こころの救済」を指向し、失われた「世界の意味」を取り戻すという発想そのものが危険だと言うのである。こうした宮台の社会学的な指摘を「宗教を分かっていない」と批判するものも居るだろう。しかし、宮台真司という人が、オウムの存在に批判的になれなかった中沢新一らの問題点に、非常に早くから気付いていた人であることを忘れないでおきたい。

思いの大小はあるにしろ、私たちは誰しも、より良く生きたい、より優れた輝かしい人間になりたいという思いを持っている。「より輝かしい自分」を求めるなどというくすぐったい言葉を鼻で笑いたくなるとしても、それなりに良くありたいという思いは、無意識的なレベルを含めれば誰しも持っているだろう。しかし我々の生きる今の社会は、人のこころのあり方にまでは介入しない社会であるから、何が良きことであるか、法に触れる「ふるまい」以上の基準をけっして教えてはくれない。「良きこころ」は自分で探さなければならない。そこに大きな落し穴がある。

「神政政治」である古代・中世や、独裁国家、共産主義国家では、頭の思考レベルで侵した違反に警察が動く。対してこころのレベルでの善悪の基準があいまいな社会では、どのような考えを持とうと勝手だという自由が手に入る。法律違反となることを「行為」のレベルで実行しさえしなければ、後は個人の自由。だからそうした社会の警察は、事件が起きない限り動こうとしない。そのかわりに、人生の途中でこころを揺さぶるような困難に出会った時、良きことの基準が見えなくなる。「警察なんて信じられない」「日本の政治は最低だ」「所属している組織がダメだと分かった」等々、価値観の不透明な社会はその時、答をけっして教えてくれない。そこにある「判断の自由=自己責任の重さ」から逃亡したいという気持ちも手伝って、だから人はしばしば別の既存の組織に向かうことがある。

宗教にしろ政党にしろ、あるいは何らかの思想系団体にしろ、既存の団体組織に入って、そこの考え方をマスターすることで「自分の輝き」をとりもどし、生きがいを見つけることは楽である。単純に楽と言い切れないにしろ、価値観のはっきりしない「終りなき日常」のなかで目的も見出せずまったり生きるよりは、ある意味で「生きている実感」が湧いてくるかもしれない。しかしその時信じたその組織の思想が本当に正しいのか、ある部分では正しくともある部分ではおかしくはないか、そうした客観的な距離を置いて思想を見ることは、その組織に入ってからでは非常に難しい。あえてそれをやろうとすれば、「終りなき日常」よりももっとつらい日々が待っているかもしれない。実際、「より良きこと」が何なのか、その価値基準は常に不透明であり、どんな思想も宗教も答にはならないのが事実。

ならば、宮台真司の言うようなある種のシラケタ、何事からも距離を置いたものの見方も、不透明な時代を生き抜くコミュニケーション・スキルの一つだとして、使いこなしていく知恵も必要だろう。


少し著者の書き方に疑問を感じることを言えば、ブルセラ世代やその後の若者たちが、団塊世代や新人類とかオタクと言われた中間世代と違って、「終りなき日常」に適応してまったり生きていく知恵を付けてきたと賛美してよいものか。

90年代以降の若者たちもやはり、不透明な社会に挫折したり悩んだりしてきたのではないのか。特に最近は「ものを買うこと」自体に躊躇させられる不況の中で、結婚や就職にも慎重になる。ましてやもっと金のかかる宗教には流れず、消えつつある学生運動に見向きもせず(つーか大学入ったって学生運動なんてもう身近に存在しない)、いろいろとつき合いが伴う労働組合にも入らないのはごく当たり前のことで、別に世代的進化とか変化とか言うほどのことか。

逆に言えば「生きにくさ」とか「時代の閉塞感」とか、必要以上に強調することもない。どんな時代にもそれなりの「閉塞感」があったはずだ。だから進化した若者が「新しい時代の閉塞感」に適応しているわけでもないだろう。宮台真司の書いていることは、偏った思考に陥って、変な組織に加盟しないための視点を届けてくれる良きマニュアルではあるが、逆にそんな思考にはもともと関心が無く、それなりの「生きにくさ」と「生きやすさ」の狭間で、それなりに生きている人々にとっては、知恵を授けてくれるかどうかは疑問だ。

確かに著者の指摘があてはまる例が無くなるわけではない。今の若者たちだって、「終りなき日常」のツラサに極度に耐え切れなくなれば、宗教や思想にハマルだろう。逆に変な宗教や思想に流れず、素敵な彼女や彼氏にハマッたなら幸いなのである。さらにそれら「普通の幸せ」にハマルことさえ叶わなかった一部の若者が犯罪に走ることは、時代のもたらす特殊な面もあるだろうが、今も変りなき人間社会の突端に出てくる現象に思えたり。

家庭でも職場でも自分を認めてくれる環境がない、そんな「日常が終らない」ことは確かに辛過ぎる。若者たちもそんな環境に、特殊な進化や適応などさほどできずに、実は昔と同じように悩んでいるに違いない。犯罪のたびに耳にする「誰でもよかった」という言葉が、それを象徴しているように思える。苦しいにも関わらず、「終りなき日常」があり、「さまよえる良心」の持っていき場が不透明な社会だからこそ、敵と見なすべき対象が分からない。「誰でもよかった」という犯罪者の言葉はより大きな現象の突端であって、その背後には社会に適応できない数千倍、数万倍の人々が居る。しかし突端は突端である。

大多数の人々は、適応できないなりに生きている。敵と見なすべき対象が分からないからといって、とりあえず日々の暮らしは忙しいし、わざわざ敵が何かを考える暇もない。だからこそ良心がさまよっていたって、誰もが犯罪者になるわけではない。どんな時代でも存在する、そんな「それでも別にいいわ」という人達にとっては、宮台真司の問題意識自体に関心が無い。かと言って彼らが「より良き」ものを目指していないとは言い切れない。極端な宗教や思想に流されない程度の、ほどほどの「より良き価値」を追求する理想ぐらいなら、多くの人が捨てていないし、捨てる必要もない。「救いは来ない」からといって、まったりと全てをあきらめるような生き方をお薦めされる必要もない。

そういった意味では、宮台真司の捉える若者文化が少し特殊な切り取り方をしているように思える。その切り取った一側面を、あまり進化だとか言わないほうが、著者の論旨が普遍化されると思うのだけれどどうだろうか...。

ただもうひとつ評価すべき点を言えば、宮台真司が言うような、我々の社会が「脳の内が脳の外であるような社会」だという指摘は、今日さらに深化している。ネットがさらに行き渡ったこの時代、宮台が書いているように、

世界認識のほとんど全てが間接体験に媒介された「複雑な社会」に我々は永遠に生きるしかない。

そのこともまた、この社会の不透明さと終りなき辛さを避けて、リアルな現実、リアルな自分を求める人々の心に影響を及ぼしているのかもしれない。これは別にネットの無かった時代からすでに始まっていた傾向で、ネットがそうした間接体験を増幅させているとも思える。何の関係も無いお笑い芸人が、殺人犯人であると誤解されて多数のコメンターからバッシングされるような時代だもの、リアルな現実と仮想世界との区別などそもそも無いという宮台真司の指摘はまた、何度も論題に載せられるべき視点であると思う。

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    音楽、美術、映画、本など趣味的なページはここに移転しました。考えるのが面倒だったので、タイトルは単に2です。

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