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2009-05-03

『終わりなき日常を生きろ』宮台真司(著)-(1)

最近新刊が出て読んでいるので、ついでにかつて読んだ同じ著者のこの本を再読してみた。副題は「オウム完全克服マニュアル」である。

昔からやたらと賛否両論にさらされる学者である。TVの討論会に出れば、妙な早口で聞き慣れない単語を連発するので、聞いてるほうが疲れる。個人的にもブルセラやデートクラブの社会学的研究に興味は無いが、ではオウムの一連の事件が続いた当時、この人の提示した「まったりと世の中を見る視点」が、今だ無効では無いと思えたり。

この人の発言が激しい賛否にさらされるのは、「ブルセラ世代 vs オウム」のように、一般には比較しにくい要素を平気で対置させるからだろう。阪神大震災後のボランティアに参加する青年たちの心理に「『核戦争後の共同性』というファンタジー」を重ねたりするものだから、普通の気真面目な人達のひんしゅくを買う。

年代的には私と大きく離れていないことに改めて気付いた。強烈なSFファンであったと言う。ハインライン、アシモフ、クラーク等50年代SFを経てバラード、オールディス、ディックや、「ソラリス」のスタニスワフ・レム等60年代SFへ。著者の独特のナウシカ解釈は、ナウシカを4回以上観た私にもようわからんが、サブカルチャー体験的には非常に近しいものを感じる。著者の言うように、確かに50年代SFから60年代SFへの変化は、「輝かしい未来への憧れ」から「科学の進歩の結果もたらされる未来は必ずしも輝いてはいない」という価値観の変化だった。物的技術と人間の能力への単純な信頼から、心の問題への関心の変化。そこで立てられた問題意識は今も続いているだろうが、だからと言って、「失われた心を取り戻せ」とか「自然への回帰」とか、ましてや「日本古来の武士道精神」などといったくだらない話を、宮台真司はけっしてしない。

著者曰く。社会の中で何が正しい行ないであるか、そこらへんの「倫理」や「道徳」が自明であったのは一神教の世界だけであると。では一神教では無い日本の古い社会で、なぜ大きな混乱が起きなかったのかと言えば、村落共同体のような共棲社会が、正しき心と行ないの基準を定めていたからだとする。問題は、村落共同体のような土台が崩れ去って久しい現代社会が、どんな状態であるかということ。

一神教の社会や古い共同体社会は、人の「おこない」だけでなく、「こころのあり方」まで人々に強制する社会であったと言う。逆に我々の住む法治国家は、人を殺してはいけない、他人のものを盗んではいけないなどの、「おこない」についての倫理道徳を強制する一方、個人のこころのあり方にまでは介入しない社会であると捉えている。ここの論旨は納得できる。見方を変えれば、ヨーロッパの封建社会や日本の古い社会は、"人を殺してよい"場合の理由ですら社会の側が決めており、人々がそこに口をはさむ権利は無かった。今の社会でも死刑があるではないかと言うかもしれないが、死刑についての是非が巷で議論されること自体が、古来の社会と今の大きな違いを示している。

今の時代は価値観が不透明な時代。救済なんてやってこない。「終りなき日常」をまったりと生きろ。「終りなき日常」では変化が無く、今輝かない自分は将来も輝かない。そんな現実はキツイが、それを引き受けてこそ生きていかなければならない。偏った宗教や思想にはまっているヒマがあったら、「終りなき日常」を生き抜くコミュニケーション・スキルを身につけろ。大雑把で乱暴かもしれないが、著者の言いたいことはそういうことだろう。

著者の言うコミュニケーション・スキルというのは、今居る社会の中で働いて生活していくための、「日常のこなし方」のようなものと聞こえるが、言葉の印象ほど軽いものではないとも思える。何か仕事上の失敗をして地獄にはまってしまった、さらに悪いことが続いて、もうオレの人生お先真っ暗に思える、そんな時「救いの手」である宗教や「輝かしい未来」を見せてくれる思想を宣伝する人や本に出会い感化されるかもしれない。はたしてそこで脊髄反射的に反応したり簡単に感動してよいのかどうか。そういう時のふるまい方の個人差にもまた、コミュニケーション・スキルの巧拙がある。布教に出会ったからといって、誰もがオウムに入るわけではない。

全ての派遣がそうであるはずが無いが、派遣労働などで働く若者たちにはコミュニケーションの苦手な人達が多いという。そんな今、未曽有の経済不況で左翼的な思想にひかれる若者たちが、かつての時代のように増えているという論評がある。先行きの不透明な時代、つらい「終りなき日常」に耐えかねて、出来合いの思想に走るのは、今も昔も変りない。しかしオウムを題材にして書かれたこの著作にある次の言葉(文庫版 p53)。なぜか、宮台の言う「神政政治」を捨て切れない既存の左翼組織にもぴったりと当てはまるのが実に不思議だ。

「(その集団の中では)疑念を抱いては生き残ることさえできない」

「トップは『自明ではない輝きを自明だと信じる』確信犯。末端は集団的な力学の中で『生き残るためには疑念を捨てるしかない』兵士」

もちろんこういう言い方は、末端がすでに溶け始めている既存の左翼団体には完全にはあてはまらない。昔と違って今の末端は案外楽だからだ。ただ思想によって集団を束ねていこうとする組織の本質からは、この言葉で表現されるような傾向が出てくるのも事実。知らないのは中枢と関わらない末端だからだ。

きつい現実を捉えて、その原因をさぐり変革していこうとする左翼的発想(右翼的発想もそこは同じ)からすれば、宮台の指向は明らかに「逃亡者」の発想である。そこが各所から叩かれやすい論点でもある。しかし、理科系の大学を出た優秀な学者や医者の卵が、なぜオウムの信者になるのかという心理は、まったりした「終りなき日常」に耐えられなくなり、自分の良心の拠り所を強く求めたからだという論旨は正しいと思う。その心理は我々にとって、特に社会や人間のことを真面目に真剣に考えようとする人達ほど、けっして他人事ではない。

「良心の呵責」を恐れる心は、彼が良心的であればあるほど強いものとなるはずだ。結局、良心あふれる存在であるほど「大いなる救済」という観念に呪縛されるという構造は変らない(p64)

オウムの犯行は、悪しき思想に浸かった幹部だけの問題では無い。しかし「末端の信者はいい人ではない」という著者の指摘は、犯行の責任問題だけに留まらない。サリンを撒いた教団幹部も、それが「救済につながる」と信じ得てこそなし得たのであり、そのことは、末端の信者であっても信仰の名のもとに命令があればサリンを撒いた可能性を示唆している。なぜ良心から出発したものが反対物に転化するのか。「強い信念に支えられた組織」にありがちなこの矛盾は、オウムに限らず、ナチにしても連合赤軍にしても、人類がずっと直面してきた課題だろう。(もちろんそういった事例をやみくもに同一視することのおかしさも著者は指摘しているが)

私個人の考えを言えば、たとえ思想など持たずにまったりと考えながら生きる人生が、単なる「逃げ」だと言われても、「簡単にはものごとを信じたり決めたりしない生き方」の価値も、けっして捨て難いものだと思う。

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