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2009-08-23

『実存からの冒険』西研

51sna8tvg6l_sl500_aa240_ よく哲学書は解説書を読むな、翻訳でいいから古典から入れという。だが、そうは言ってもいきなりフッサールやハイデガーを再読する気力体力が湧く年でもな いので(笑)、がんばったところでたいてい無理が祟る。

結果、書店の哲学コーナーは売れない本の溜まり場である。だからどうしても馴れないこちらの頭をワ ケワカな専門書にうま〜くつないでくれる入門書が必要で、そういった活動を今もしている研究者として、この西研とその友人の竹田青嗣のような存在もありかなとは思う。

2人とも主として現象学に足場を置く学者で、いつも唐突に出てくる「エロス」という用語の使い方には戸惑うのだが、年代的に私も近いので、彼らの思想遍歴を辿って書かれた体験談に共感することも多い。

学生時代の西研が共産党や新左翼をどう思っていたか知らないが、この本を読む限り、彼も若い頃マルクス主義にはまり、社会変革の夢を抱いていたそうだ。

おそらくは受験青年であった著者が、大学で「資本」という言葉に出会ったことで、「<私の苦悩>=<社会の苦悩>であり、<私の解放>=<社会の解放>という等式」が成立していたと書いている。ただそこから疑問も起こったわけで、「マルクス主義は、いっさいの問題をすべて社会の構造の問題に還元してしまうから、自分の抱えている苦しさはすべて社会変革という共通目的に吸収されてしまう」という点に納得できなかったと言う。

私の知ってる共産党員達は、そこの疑問を50才近くなっても持たない人が多くて、「マルクスが言ったのだから社会発展の法則は必ず実現する」などと、今でもつぶやいている。私はそこは違ったけれど、そこから離れて読み出した現代思想は、全てを相対主義で割り切ってしまっているようで、希望が見えず、どことなく虚しかった。西研がこの本の「ポストモダンとニーチェ」という項で書いている言葉が、だからすんなりと心に入ってきた。

ぼくは、日本のポスト・モダンの流行を横目で見ながら、じつはニガニガしい気分でいた。マルクス主義の倫理主義にウンザリしていたという点ではまったくおんなじだったのだけれど。それはひとつには、理想とか真理を求めてしまうことがダサイ・フルイとされて、自分はそうじゃないもん! といわれても、けっこうマジで社会変革を夢見ていた俺はどうなるんだ、ということだった。当時のぼくにとっては、社会変革の夢が入り込んで行き詰まった、というプロセスを自分のなかで確かめることが必要だったのだ。ポスト・モダンの言い方は、フランス直輸入でハクをつけた上で「おまえらはもう古い、ぼくらは元気だもん」と頭ごなしにいわれたような感じがあって、冗談じゃねえと思ったのである。

「あとがき」を書いている川本隆史氏は、この本のニーチェ論が気に入ったようで、第二章のハイデガー論はイマイチだと書いている。私は逆に第二章を面白く読めた。

昔も考えたこととは言え、この本を再読してまた気付いたけれど、若い頃「存在と時間」を読んだ時、ハイデガー用語の「本来性と非本来性」という概念を短絡して理解し、「投企」という用語の「本来性へと駆け出して行く」イメージを、「社会変革に身を投じること」に結び付けていたと思う。思えばそれはかなりサルトルのフィルターを通したハイデガー理解ではなかったか。ハイデガー自身にそう受け取られる要素があるし、レジスタンスでなくナチスに身を投じることで「本来性」へと向かったハイデガーの歴史的事実が消えるわけでもない。ただ、偉大な思想家の書いたものは、その前後関係を辿ることで始めて歴史の中に適切な位置付けを得ることは、マルクスと同じ。簡単に答えを出してはいけないとも思う。

「存在と時間」の序章「...存在への問いは、今忘れられている...云々」との言葉が、いかに巨大な思索の上に立てられた深い言葉かということが、やっと、ほんの少しではあるが感じられる年に(いまごろ)なってきた。そんな、西洋哲学史を総括してやろうというハイデガーの壮大な目論見が分かり始める地点にようやく立って、こういう数段平易に落とした入門書を読むと、知識の全体的な見取図を整理してくれて、とても良い。現象学とハイデガーはまっすぐにつながっているとあらためて思う。「存在と時間」の扉にある献辞がフッサールに捧げられていることを軽く見てはいけないなと。(ただ、ハイデガーと言えばの木田元は、むしろフッサールとの断絶面を強調しているようだが)

思想が、特定の人々や組織のイデオロギーに留まっているかぎり、外側の人間には共有しにくい思考が内側で再生産される現実は避け難い。でも古典をそうやって狭く利用するだけの読み方は間違っている。西研や竹田青嗣らの仕事は、哲学の分野で若者達とともに考え合い語り合う行為を通じて、共通了解を創り出そうという努力に向かっているんじゃないだろうか。

個の認識の限界の解明と、形而上学を神から取り戻すことに、あまりにも長い時間をかけすぎてきた哲学は、ある意味で解体し再構築されなければならないのは事実。その点において現代思想が辿って来た道がムダであったはずはないけれど、哲学が、実用という浅薄な意味で役立つのではなく、人間にとってもっと必要なものだといろんな人達から納得して受け取られる日がいつか来るのだろうか? 「哲学は役に立たない」と、中島義道さんはきっぱり言うけれど、まあいいじゃないかと思ったり....。

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