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2009-10-19

『死刑囚 永山則夫 ~獄中28年間の対話~』

永山則夫のことは本やネットの情報を通じてある程度知ってはいた。しかし、私の貧しい想像力で文章から得た知識と、本人の言葉、写真や関係した現地の取 材、関わった人々の生の言葉で見せられるものとの違いは大きかった。「永山基準」という乾燥したdisciplineからは想像つかない、苛烈な物語がそ こにあった。

    ETV特集「死刑囚永山則夫 獄中28年間の対話」(2009-10-11 23:42:15)

もう40年前にもなるそうだ。1969年、当時19歳の永山則夫が犯した"連続射殺事件"。1997年8月1日に死刑が執行され、享年49歳の短い人生だった。遺骨は、本人の遺言どおり、獄中結婚した妻の手で海に散骨された。

人生の半分以上を獄中で暮らした永山被告は、手紙を書く時にわざと複写紙を使用して、自分が書いた手紙を保存していたのだという。"記録と保存?" これは明らかに、生きようともがいていた人の行為だろう。その結果、監獄と外の社会の接点で出会った妻、支援者、著名人、その他名もない人々との1万5000通を超える手紙が残された。

永山はまともに学校に通えなかった。逮捕当時は漢字すらちゃんと書けなかったという。しかし、監獄で自己と向き合い、沈思黙考する生活は、彼を劇的に変えた。獄中の読書数千冊、今もある人が秘蔵するその本の山が画面に映った。圧巻だった。見ているだけでクラクラした。資本論などもよく読み、社会主義思想にも出会った。かなり高度な社会学や法学の本も読んでいる。

独学で自己の犯行動機を見つめた結果行きついた、生まれ育った社会環境の矛盾。そこに見い出した「無知」と「貧困」を、71年「無知の涙」で問いかけ、ベストセラーとなった。それがまた全共闘世代の共感を呼ぶ。その後も作家として「木橋」などの小説を発表、第19回新日本文学賞を受賞するまでに至る。

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たどりついたその認識と後悔....、「私は、自分と同じ労働者階級の人々を殺してしまった...。

感情をコントロールできず無差別殺人に走った19歳の少年永山と、狭い獄中で、書物や手紙を通して人々と出会い成長した永山則夫は、全くの別人ではないのか。そう思わせるほどの変貌であった。

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以下番組で紹介された永山の成育歴を要約する。

1949年、永山則夫は網走で8人兄弟の7人目の子として生まれた。その幼児期は、あまりにも悲惨だった。父は、りんご農園で働く腕のよい職人だったが、やがて博打にひたるようになり、家庭は極貧となる。耐え切れなくなった母親は、永山が5歳の時、青森の実家に逃げた。しかしその時、汽車賃が足りないと4人の子供たちを置き去りにして出ていってしまった。「母親に捨てられた....」その体験が、永山の人格形成に与えた負の影響は、裁判で何度も取り上げられた。

4歳の頃の永山本人や母親の写真。古ぼけたセピア色の貧しい思い出全てが悲し過ぎる。冬は零下30度にもなる網走で、幼い兄弟たちはゴミ拾いをして飢えをしのいだと言う。しかし、そのあまりの悲惨が近所の目にとまり、福祉事務所に通報された。そのことによって兄弟たちは、逃げた母親の元にようやく引き取られたのである。しかし母親の生活も極貧だった。行商をしながら生計をたてる母親は、早朝から深夜まで不在。長屋に残された兄弟は、おそらくストレスの極地に日々晒され続けたのだろう、母の留守中、永山は兄から気を失うまで殴られたという。その頃の兄弟と、狭い暗い住居の写真。そして彼は、やがて万引きなどの非行に走るようになった。

やがて永山は、15歳で実家を捨てるように上京する。渋谷の青果店で働いた当初、非常に真面目で周囲から信頼された。やがてその働きぶりを認められるようになったものの、偏見と差別がうっ積する暗い時代。以前やった万引きなどの非行歴がバレるのを恐れて、彼は失踪する。そこからの悪循環は、またしても悲し過ぎる。定職に付けず地方を転々と流浪して働く。名前と過去を隠して生きる日々。住むところもなくなり、深夜喫茶や深夜映画館などに泊まって過ごす生活が続いた。そのうち、自分の人生や人間そのものへの憎悪を深めていったのだろう。

そして、やがて盗んだ拳銃で東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺。逮捕される。犯行現場や逮捕された時の報道写真、70年前後の写真が画面に流れた。その頃自分が生きていた街並をつい重ね合わせ、見ているだけでまた暗い気分になる。

79年に東京地方裁判所で死刑判決。81年の東京高等裁判所ではいったん無期懲役に減刑されたが、90年に最高裁判所で死刑が確定された。

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永山被告にとって、後に獄中結婚をした和美さんの存在は、きわめて大きかったと思う。時に涙を浮かべながら当時を語った和美さんは、TVで永山のことを話すのは初めてということだった。

和美さんは、当時まだ日本に返還されていなかった沖縄で生まれた。父親の名前も顔も知らなかった。話に聞くだけの、そんなフィリピン人の父と、日本人の母親の間に生まれた。仕事に追われていた母親は、祖母に彼女をまかせた。しかしその母も再婚して突然渡米し、15歳の時に別れてしまった。彼女もまた母親に捨てられたと感じたと言う。おそらくそうした境遇が永山との共感につながったのだろう。

和美さんは国籍を持たなかったため高校進学もできなかった。困り果てて沖縄の福祉事務所に行くと、またそこで補助金にまつわる新たな差別に直面する。「白人の子は10ドル、黒人の子は5ドル、フィリピン人の子は3ドルの補助がでる」「ああ、私の値段は3ドルなんだ....」その時の記憶を語る和美さんは怒りと涙で震えていた。

その後に彼女もまた、社会に対する厭世的な憎悪に捉えられ、殺人衝動に駆り立てられたと話す。「私がぎりぎりのところで拳銃の引き金をひかなかったのは、育ててくれたおばあちゃんの存在があったから」そう語っていた。そして日本で起きた永山則夫の事件を知り、獄中に手紙を出した。

永山は、当時アメリカに住んでいた和美さんとの文通を通して、生まれて初めて心の底から共感し合える人と出会った。千を越す手紙のやりとりをした後、和美さんが来日。その時の若い和美さんの写真も映った。二人は弁護士立会いのもと、獄中で結婚。そして驚くことに、結婚した和美さんは、監獄から出られない永山の意思を携えて、被害者宅に謝罪訪問をするようになる。犯人が結婚したという事実そのものがすでに、家族を殺された遺族には受け入れ難い状況だっただろう。門前払いされたこともしばしばと言う。しかし妻という存在を通じて、永山は遺族に受けとってもらおうと、小説などで得た印税を運び謝罪を続けた。和美さんもまた、悩みながら印税を渡す行脚を続けた。印税はいくつかの遺族で受けとられ、あるいはいくつかで拒否された。

永山には、東京高裁でいったん「無期懲役」に減刑された時代があった。その頃、少しだけ幸せが見えたのだろう。刑務所を出ることがあれば、それはまた巨大な十字架を背負った、死刑より苦しいかもしれぬ新たな「ごめんなさいのはじまり」なのだ。永山と和美さんは、互いにそう話したのだという。ふたりで塾のようなものをやりたいね、そんな夢を語った時代があったのだとか。しかし最後は最高裁で死刑が宣告される。

番組では、東大法学部を中退して山谷で肉体労働をしながら永山裁判の支援者として生きる人生を選んだ武田和夫氏も、当時の思いを語った。また最高裁での死刑宣告がされた当時の女性弁護士も登場。死刑確定直後、永山に彼女は言われた。「逮捕された後、死刑でもしかたがないと私は人生を消した。その私に、一度無期懲役という希望を与え、そうしてやっと生きたい、死にたくないという気持ちを復活させた後で、もう一度死ねという。それがあなたたち司法のやりかたなのですね」そう永山に言われた時、弁護士たちは何も返せなかったという。

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番組を通じて、私には永山則夫という人が、巨大な深い存在として再記憶されてしまった。永山則夫という人がたしかに、たった一人でも居たという事実が、世の中に「死刑制度」への問いかけを、ずっとずっとし続けるだろう。永山則夫が読書と思考と人との交流の末たどり着いた、犯罪の底辺に横たわる「社会」の問題。それはひどく深くて、我々の浅い思考を粉々にする。

確かに同じ少年犯罪と言っても、永山の見つめた「成育環境の問題」と、例えば光子の事件で被告Fが手紙に書いた「オレは環境のせいにして逃げる」という言葉の間に、なんという遠い距離が横たわっているのだろうとも思う。しかしそれは、永山はかわいそうであって、Fは死刑に価する人間だといった次元の話に終らない。

そんな比較を越えて、わたしは永山則夫に問い続けられるような気持ちになる。少年犯罪における「更生」とは何なのか? 何をもって「更生」と呼ぶのか? そのひとの「更生」の可能性があるということを、何をもって判断するのか? 永山則夫の人生を知れば知るほど、裁判員制度が恐くなるだろう。法律や裁判という乾燥した枠組を越えて、「死刑」という、国家によって正当化される暴力について、そのはるかな上空から、答の出ない問いを、永山則夫は我々に考え続けさせるだろう。

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死刑が確定したあと、人生の最後において、和美さんたちの努力の末、永山則夫は生き別れていた母親をさがしあてる。老いた母はすでに病弱で寝たきりであった。すでにかなり高度な文献も読みこなし小説家でもあった永山は、もともとカタカナしか読み書きできなかった母親に、カタカナだけの手紙を書いて送る。かなり大きめの文字で。そこには自身の置かれた状況などほとんど触れず、ただただ病気の母親を心配する気持ちと、感謝の気持ちが綴られていた。

永山則夫は、自身の著作の印税を、貧しいこどもたちへの寄付にしてほしいと遺言に残した。後に弁護人たちによって「永山子ども基金」が創設された。

監獄の中で、もう一度生きたいと希望を持った永山則夫は、「死刑執行のその時は全力で抵抗する」と生前語っていたという。執行の際、近くの監獄に居たある服役囚が激しい絶叫を聞いたらしい。私の頭の中で想像してみたその絶叫が、番組の後もしばらく、執行台に向かう暗い廊下の写真の奥に、鳴り響いた。

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コメント

昨年の放送、今年の再放送。ビデオにとって何回も何回も見直しています。団塊の世代です。
元妻の和美さんほど永山を語るにふさわしい人はない、とおもいます。離婚したが彼女は永遠の妻、といえるでしょう。多くの作家、支持者弁護士学者が去っていく中で最後まで弁護し続けた大谷恭子弁護士に巡り会えたのも幸福でした。なかでも、私と同世代(永山もだが)で、大学の差別的存在を自覚し、退学後、初志貫徹、永山の支持を継続した武田氏の存在はショックでした。

(細かいことですが。。100ドル、50ドル、30ドルは、時給10ドル、5ドル、3ドルの間違いではありませんか?)和美さん(混血?のため戸籍がなく免許も取れなかったという)が法律書を万引きし、公園で一人で読み、なぜわたしがこういうことをしなければならないのか、両親はなぜ、わたしを捨てたのか!と親に対する怨恨(殺意)をもった、それを引き留めたのはお婆さんの存在だった、という。永山にもし、このような親身になって愛情をかけてくれる人があったなら、。。と。

船田基準はまったく噴飯物です。動物たる人間が人を殺さないのは何故であるか?という考察がまったくない。

古井戸さんのようにビデオにとっていないので確信はないのですが、ブログ界隈ではこの特集番組のことを書いておられる方も多く、いろいろ参照して御指摘の点を訂正しておきました。

丁寧なコメントありがとうございました。

最近になって永山死刑囚を知りました。テレビは文章と相反し洗脳させても想像力と思考力に限界があるので一切見ません。
私の両親も極貧の家庭で育ち中卒後に「金の卵世代」として働いています。だからといえ、犯罪はしていません。永山さんは元からの読書家・努力家なのに弁護士の「永山さんは環境に恵まれず反抗当時の精神年齢が18歳未満である、無知であった」主張は単なる犯罪の言い逃れです。彼よりもっと過酷な環境で育ち生きている人も大多数います。
しかし凶悪犯死刑賛成論の私でさえ彼が過酷な努力の上に文学賞受賞し印税を遺族へ払って贖罪していたなら、無期懲役判決後に情状酌量をシカトした検察が上告した必要性を疑いました。そしてコンクリ事件こそ死刑にするべき犯人を主犯家族が五千万の慰謝料払ったから野放しにした司法の矛盾・・。頭は良くても検察や弁護士との心のキャッチボールが苦手だったのでしょうね。惜しい人がみせしめのために逝去されました。
未読ですが「木橋」「無知の涙」は本屋さんで購入してきました。永山さん完全に黒だから処刑されたけど、例え反対の社会主義思想であれ、このブログで「死刑する必要のない社会」「凶悪犯が出現しない社会」を死と隣り合わせで限られた生の時間から私に、そして多くの人に教訓を与えるためにこの人、生まれてきたんだよ、きっと。個人的には出極は許さなくても処刑されず一生を終えてほしかった。

私は永山さんのことを知るまでは、殺人を犯した人はたとえ未成年であろうと死刑にするべきだと考えてきました。しかし、永山さんのことを知ってからは、死刑はするべきではない。と考えが変わりました。彼はただ、貧困だけで犯罪を犯したわけではありません。彼がこの世で一番強く求めていたのは愛です。おそらく母親からの愛が受けられていたら、彼の人生は違っていたと確信しています。同じ境遇にいた兄たちが罪を犯していないといいますが、兄たちは自分たちの行き場のないストレスを自分より下の弟を暴行することで解消されていたからではないですか
。彼は死刑の基準や社会の矛盾など多くの課題を今を生きる私たちに残して逝きました。彼の存在はこれからも残っていくと思います。彼を批判する人はいて当然ですし、だれかを責めるということは出来ません。私は彼に暴行を加えた兄たちが今、どんな気持ちで生活しているのか会って話してみたいと思っています。おそらく青森、北海道にはいないでしょうね。

今回の光市母子殺害事件の死刑判決が確定し、永山則夫さんのことが思われて検索をかけてみたところ、こちらのブログに行きつきました。
もう3年も前に書かれたもののようですが、書いてあることに古さや時間などは関係ないものだと思いました。
永山則夫さんは、弁護士の大谷さんにとって予想外だった午前中に死刑が執行され、毛布にくるまれたのか、毛布にしがみついたのか、残された毛布に濡れている箇所があり叫び声を聞いた者もいたということです。
生きる意味を見出して自分の罪と向き合った彼にとって、悲しい最期になってしまったような気は拭えません。
こちらのブログを拝読し、あらめて、28年間という時間が彼には与えられていたからこそたどり着けた境地だったと思いました。28年間という時間が、多くの人の命を不条理に奪った犯罪者にも与えられたから、彼は自分の罪と向き合うことができたはず。
その部分を考えたときに、今回の光市母子殺害事件の死刑判決確定は、早すぎたのではないかと思います。その事件が如何に残虐冷徹で常軌を逸した犯罪だったとしても、そのことは、判決を急ぐ理由にしてはならない、そう思います。

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