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2010-03-11

「子どもは親を選べない...」相次ぐ児童虐待事件に思うこと

このところ児童虐待事件が相次いでいます。あまりにも立て続けに報道されるので、どれがどの事件かわからなくなるくらい。あまりに酷い話が多く、ニュースの引用もしたくないような。

ではやや間接的な取り上げ方はと思い探してみると、ちょうど毎日新聞が児童相談所の調査について報道しています。

養育放棄:3割が無職 経済格差も背景--児童相談所調査 (毎日新聞:2010年3月8日)

児童虐待のケース全体では3分の1だった経済的困窮家庭が、ネグレクト(養育放棄)では半数を超えていたとして、「虐待要因はさまざまだが、ネグレクトと親の経済的困窮は深く関係している。行政や周囲は親の体験している困難さや社会的に不利な状況に目を向けないと子を救えない」という専門家の見解を載せています。

この統計は事実を反映しているのだろうし、たしかにこういう視点で取り組むことは大切だとは思うのですが....。

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私は児童虐待のニュースを聞くと、いつも宮本輝の小説を映画化した「泥の河」(1982年:小栗康平監督)のシーンを思い出します。 田村高廣が「子どもは親を選べないからな〜」と、しみじみ語る場面です。

自分の幼い息子をベランダのゴミ箱に夜通し閉じ込めて殺してしまった父親は、裁判で「躾のつもりだった」と、いつも繰り返されてきたセリフをまた言いました。しかし「しつけ」ってなんでしょう? 「しつけ」のつもりで子どもを叱る行為と、単に自分のイライラやストレス発散との間に、明確な区切りなど無いのではないでしょうか。

私なども、仕事から帰宅したおりに子どもがいい加減なことをしていて叱り飛ばしたことがあります。父親というものには、ある程度そういう厳しさが必要だとの世の考え方もあるし、一定のそういう価値観も必要とも思っています。ただ、叱りつけたその場その場だけを捉えれば、そのときの自分の感情に、職場のできごとやその他のことから来る、子どもとは何の関係も無いイライラが全く混じっていなかったかというと難しいところでしょう。

タマネギの皮を剥くように、自分の深層心理を掘り下げていったとき、「しつけ」と「発散」の区別は微妙です。実際虐待をした親の多くは「子どもが言うことを聞かなかった」「泣いてうるさかった」など、自分自身の精神力に余裕が無かったことを吐露します。子どもに対する力関係では、親のほうが圧倒的に優位にあることを親自身はつい忘れてしまう。親の行為が「しつけ」であるか「虐待」であるかは、受け取る子ども自身の受け取り方しだいであって、一方的に親が「しつけ」だと合理化できるものかどうか。

つい先日の3月5日も別の事件で、4歳児に食事を与えず衰弱死させてしまった親がいました。死んだ子どもの体重は6kg程度だったなどという信じられない話で、マスコミはいつもの親バッシングに加え、気付いていたはずの児相や警察が何もしなかったとか、個人の家の中まで踏み込めない法律の壁などをさかんに言っています。

この家庭についてはあるTV局が、たまたま数年前に、貧困のために路上生活していた時期の様子を捉えていました。「お腹が空いた」とカメラマンたちに近寄って来る子どもの様子。それでも親は自分達の食事を優先させ、すがりつく息子を蹴り倒したりしている様子が捉えられており、その頃からすでに無惨でした。おそらくは興味本意で始めた取材だったのでしょうが、さすがに見過ごせないと感じた局の関係者が両親に「生活保護という手段もあるし、子どもだけでも一時保護で引き取ってもらっってはどうか」と持ちかけると、「うるせーんだよ! おせっかいなんだよ!」と逆切れする父母の姿が映っていました。

まあその後生活保護の申請や子どもの保護はされたものの、いざ生活を少しだけ立て直して子どもも引き取って再出発後の今回の事件だったわけです。形だけであっても家庭が成り立つことで、また虐待が始まる。このことは重要だと思います。

この父母は、TV局関係者のアドバイスをなぜ「おせっかい」と感じたのか。おそらくは、自分達の"家"の問題は自分達の問題であり、"自分の子ども"は"自分のもの"だという意識がどこかに強くあるから、他人に踏み込まれたくないのではないでしょうか。

でも"自分の子ども"は、はたして"自分の所有物"でしょうか??

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昔は「子どもは神からの授かり物」と言いました。無宗教な私にはピンと来ない言葉ですが、見方を変えればこれは「子どもは親の所有物ではない」と言っているようにも受け取れます。

私の大好きな坂口安吾は「戦争論」の中で、日本人の無意識に強く根を降ろす家族制度について疑問を述べています。

私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
 家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠 牲になるが、人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かゝる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。
 もとより、現実の家の制度の牢乎(ろうこ)たる歴史の上では、本能も、人情も、ぬきがたい人間の実相の如く見えている。又、私が一人実験台にのぼってみたところで、数千年伝承してきた習性があって、一時にそれをどうすることができるものでもないだろう。
 家の制度というものが、今日の社会の秩序を保たしめているが、又、そのために、今日の社会の秩序には、多くの不合理があり、蒙昧があり、正しい向上を はゞむものがあるのではないか。私はそれを疑るのだ。家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたゝかさ は、家の子供にはないものである。
 人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。
 もとより私は、そのような新秩序が急速に実現するとは思わず、実現を急がねばならぬとも思っていない。然し、世界単一国家の理想と共に、家に代る社会秩序の確立を理想として、長い時間をかけ、徐々に、向上し、近づいて行きたいと思う。
 私は思うに、最後の理想としては、子供は国家が育つべきものだ。それが、理想的な秩序の根柢だと思っているのだ。

「子供は国家が育つべき」とは、「命を守りたい」とかいう何ともピントのずれた演説をされた今の首相の理想とも合致するところでしょう。ただこれは政治の理念だけで語る問題ではあるまいとも思う。安吾が最も強調するのは、"家"というものが優先されることによって生まれる、個人個人の蒙昧と積み重ねではないかと。

たしかに数字のうえでは経済的困窮が児童虐待と関係しているのでしょう。しかし、だからまずは親の生活を向上させよと、そこだけを言われては虐待される子どもはたまらない。日本人がもっと困窮していても、子供はたくましく育った時代があったと聞く。天皇制が形骸化し、大家族制度が死に絶えた現代なのに、"家"というものはしぶとく人の心に住み付き、子供を殺した父親が裁判ではまだ「しつけのつもりだった」などと"父親"という虚構を捨てない。

まるで虐待し殺すためにだけ生んだかのような親。そんな親のもとで、家の外に広がる世の中のことをろくに知らずに、地獄のような家族の内側で短い一生を終えた子どもたちは何のために生まれて来たのか!!

正直「なぜ生むのか??」と思ってしまうのです。


親があっても、子は育つ」とは、いまさら紹介するまでもない坂口安吾の有名なフレーズ。

「子どもは親を選べない」のだから、子どもの人生を殺してしまう「家族」などいっそ消えてしまえ、そんな"家"を作る親など居ないほうが子どものためだと、つい思ってみたり......。

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コメント

虐待する親の3分の1が無職。
仕事もしようとしないようなバカだから虐待するんじゃないの? 社会のせいじゃないし

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